戦争の話をする義父

我が家の三世代同居も始まってから10余年、義父は80代半ば、義母も70代後半になりました。

 

我が家の子どもたちとの年齢差は実に60歳以上。いちばん身近にいる時代の生き証人です。

 

義父母の幼い頃の体験談 ── とくに、戦争に関することについては、平和な時代に生まれた子どもたちはもちろん、私たち親世代も、実感としてはまったく知らないことばかり。

 

義父母が元気なうちに語り継いでいかなくては…と折に触れ思います。

義父が戦争体験を語らない理由

我が家の義父母、とくに年長者である義父は、あまり自分から戦争の話をしたがりません。

 

辛い記憶があってそれを思い出したくないのか…などと勝手な想像をしていましたが、義父に聞いてみると別にそういうわけではなく、若い人は戦争の話なんて聞きたがらないだろう、年寄りの説教と思われてもいやだから…とのこと。

 

実際、義父の口から聞く戦争の話は、私の予想していたステレオタイプな体験談からはかけ離れていました。

ひもじくなかった疎開生活

東京生まれ東京育ちの義父は、戦況が悪化した小学校低学年のころ、同じ小学校に通う姉と一緒に、長野の山間部に集団疎開をしたのだそうです。

 

さぞ心細く、またひもじい思いをしただろうと思って話を聞くと、

 

「いや、私は東京育ちだから、田舎の山や川で思い切り遊べるのがとっても楽しかった。姉さんが一緒だったからそんなに寂しくもなかったし、ご飯もお腹いっぱい食べさせてもらえた。ひもじい思いはした記憶がない」

 

とのこと。

 

なるほど…もちろん辛い思いをした疎開経験者の方も多いでしょうし、義父は幸運だったのだと思います。でも、もしかしたら、当時の子どもにとっての疎開生活は、まるでキャンプか宿泊学習のような側面もあったのかもしれません。

 

「先入観なんてあてにならないものだな…」

 

この話を初めて義父から聞いたとき、改めてそう思いました。

実家全焼と父の戦死…その先にあったもの

その後の東京への空襲で、後楽園近くにあったという義父の実家は全焼してしまいます。

 

前後して、召集されてはいたものの病弱で国内に留められていた義父の父親が体調を崩し、ついには戦病死(従軍中に病死すること)してしまいました。

 

焼け出されたあと、義父は母と3人の兄姉と一緒に、しばらくのあいだ東京の大きな眼科医院に身を寄せていたそうです。

まるっきり他人の家に住んでいた

てっきり親戚の家なのかと思ったのですが、なんとただの母の知人、しかも医院の持ち主ではなく働いていた人の知人という、まるっきり他人のツテをたどって下宿させてもらっていたというのです。

 

そんな薄い縁では下宿中にさぞ肩身の狭い思いをしただろう、と思ったら、義父が語るには、

 

「同じような境遇の家族はほかにもいたし、私は全然気にならなかった。すっかり自分のうちだと思っていた」

 

とのこと。

 

当時小学生の男の子の記憶ですからそんなものかもしれません。大人はもっと大変な思いをしたと思うのですが、少なくとも義父は、辛い環境とは感じなかったようです。

 

他人を、しかも複数家族、自宅の離れに住まわせる…現代では考えられないようなことですが、当時の日本は人間関係が今よりずっと濃く強いものだったのだな…と思い知らされます。

 

もちろん良いことばかりではなく、人間関係の濃さからくる煩わしさというものも相当あったに違いありません。それをきらって現代の私たちはどんどん近所付き合いを少なくしているのですが…。

 

いざというとき、遠くの親戚より近くの他人、ということわざもあります。気楽さと引き換えに失っているものの大きさについても、たまにはしっかり考えてみないとな、と思うのでした。

いつもとは違う義父に対する家族の反応

こんな義父の戦争体験を、我が家の子どもたちも興味深そうに聞いています。

 

普段は隠居の身、家でのんびり過ごしたり畑を耕したりしている義父の姿しか知らない子どもたちに、過去の体験を話してもらうのはとてもいい経験になるのでは…と思っています。

 

私自身、「そんなに大変なことはなかったよ」と壮絶な体験をさらりと話す義父の、自分の人生を歩み通す力強さを改めて知ることができました。

 

東京の空襲を経験した義父に対して、義母は満州生まれ東北育ち。

 

次回は、義母の戦後のあれこれをお話しします。

文/甘木サカヱ イラスト/ホリナルミ