故・井筒親方(元関脇・逆鉾)を父にもち、相撲部屋で育った天咲千華さんですが、宝塚歌劇団時代に壮絶な摂食障害を患い、医師からも「それは静かに自分を追い詰める行為だ」と宣告されます。「美しさ=細さ」という強迫観念から抜け出せたきっかけとは──。
「私は醜い」被害妄想が摂食障害の入り口だった

── 厳しい父親の元を離れ、宝塚音楽学校に進学した天咲さん。卒業後は憧れの舞台に立ち続けるいっぽう、人知れず苦しまれていたコンプレックスがあったと伺いました。
天咲さん:私は生まれたときから4000gを超えるビッグベビーで、もともと体質的に太りやすかったんです。お相撲さんに囲まれて育ち、食べることがコミュニケーションだった環境も影響していたかもしれません。しかし、宝塚には神から祝福されたような美貌を持ち、どれだけ食べても細いままの逸材がひしめき合っています。そのなかで、徐々に自分の体型に対する強烈な劣等感にとらわれていきました。
「自分は醜い」「周囲からもそう思われている」という被害妄想に近い思い込みから、過激なダイエットを始めました。それが、壮絶な摂食障害の入り口でした。まったく食べない拒食期と、理性を失って人の3倍近くを詰め込む過食期。過食しているときの記憶はほとんどありません。ただ、目の前にあるものを詰め込むことしか考えられない。後に医師から「それは静かに自分を追い詰める行為だ。行き着く先はどこにもないよ」と宣告されたほど、私の心身はボロボロでした。
── 当時、どのような治療をされていたんですか。
天咲さん:在団中はカウンセリングや精神科に通うことに対しては「周りからどう見られるだろう」という意識が強くあったため、なかなか足を運ぶことができませんでした。食べないことや過度なダイエットをしていた自覚はあったものの、それが当たり前の世界だと思い込んでいて、当初は深刻にはとらえていなかったんです。
── とはいえ、医師に宣告を受けるほど心身ともにボロボロの状態です。そのコンプレックスとは向き合えたのでしょうか?
天咲さん:いえ、辞めるまでの間、みずからのコンプレックスは結局、乗り越えることはできませんでした。厳しさや上下関係については、厳しい父に育てられた経験から覚悟ができていたので、大きなつらさはなかったのですが、心の奥にあるコンプレックスだけは、退団するその日までずっと向き合い続けても越えられなかったんです。
ただ、退団後にヨガと出会って、初めてその重さがほどけていく感覚がありました。「乗り越える方法を知らなかっただけだったんだ」と気づけたのは、その後の人生で大きな意味を持っています。
宝塚にいた頃、もっと自分をていねいにケアしたり、心の状態を見つめ直す時間を持てていたら、違う景色が見えていたのかもしれない…今はそんなふうにも思います。ただ、当時の自分はどうしてもそこまでたどり着けなかった。その経験も含めて、今の私を形づくる大事な軸になっているような気がしますね。
震災後の観客の声に、涙が止まらず
── 在団中は極限状態のなかでどのように舞台に立ち続けていたんですか。
天咲さん:当時は、自分の価値を芸で証明するしかないと必死でした。宙組から花組への組替えを経験し、男役から娘役への転向、さらには子役から、新人公演でのコミカルなおばあさん役まで、あらゆる役柄に挑戦しました。ただ、自分ではない誰かを演じている間だけは、醜い自分を忘れられたのかもしれません。
── 宝塚歌劇団在団中、一番印象に残っている出来事はありますか。
天咲さん:2011年の退団公演です。東京公演の直前に東日本大震災が発生しました。日本中が悲しみに包まれるなか、「こんなときに華やかな舞台を上演していいのか」と、出演者全員で何度も話し合いました。しかし、幕が開いた瞬間、客席から地鳴りのような、それまで聞いたこともないほど力強い拍手が沸き起こったんです。
劇場のロビーで募金箱を持って立ったとき、お客さまから「宝塚がいつも通り上演してくれていることが、私たちの生きる希望です」と言われ、涙が止まりませんでした。それまで、自分のコンプレックスのことばかり考えていた私が、初めて「誰かのために存在する」という舞台人の本当の意味を知った瞬間でした。
── 当時、退団された後はどのような活動をするか考えていたのでしょうか。
天咲さん:退団後のことは、正直まったく考えていませんでした。「舞台に立ちたいと思わなかったんですか?」とよく聞かれるのですが、私は宝塚の舞台が好きだったので、他の舞台に挑戦したいという気持ちはほとんどなかったんです。
実際、退団後に舞台に立ったのは一度だけです。先輩の悠未ひろさんが被災地に向けたチャリティーコンサートを企画されていて、その思いに強く共感し、参加させていただきました。それ以外は、元宝塚として何か活動することも含めて、いっさい考えていませんでした。