「九州男児で不器用で、礼儀作法に異常なほど厳しい父に、幼少期は反発心ばかり募っていた」という、故・井筒親方(元関脇・逆鉾)の長女・天咲千華さん。「親元を離れ、父の知らない世界で生きてやる」と宝塚歌劇団への道を選びますが、過酷な環境を生き抜けたのは、皮肉にも父親の厳しさがあったからだったそうです。
幼い頃は、父の存在自体が怖かった

── 現役時代は逆鉾の四股名で活躍された故・井筒親方を父にもつ天咲さんですが、幼少期は厳しい家庭環境で育ったそうですね。
天咲さん:私が小学校1年生のときに父が相撲部屋を継承し、そこから生活は一変しました。扉1枚隔てた先にお相撲さんたちがいるという環境が、私にとっての当たり前になったんです。今でこそ稽古場と自宅が完全にわかれている造りの部屋も多いですが、当時は境界線が曖昧で、お相撲さんたちが日常的に自宅部分に出入りしていました。
親方の娘という立場ではありましたけど、父の方針で、娘だからと特別扱いされることはいっさいありませんでした。むしろ、他所さまから大切なお子さんをお預かりしているという立場上、父は弟子たちの手前、私に対しても厳しかったですね。とくに礼儀を欠いたときはそうでした。
── 部屋にいたお弟子さんたちとはどのような関係性だったんですか。
天咲さん:父に厳しく叱られたときは、部屋にいた若い力士たちが本当の兄妹のように私をかばい、慰めてくれました。父に叱られて泣いていると、そっと手を差し伸べてくれる。そんな距離感だったんです。
年6回の本場所、その間には巡業などもあり、父に休みはほぼありませんでした。ですから家族3人で旅行に行った記憶は一度もありません。父は一年の半分は不在。行事に合わせて休むという概念すらない世界で、私は家族という形にどこか飢えていたのかもしれません。
── 当時、お父さんとはどのような距離感だったのでしょうか。
天咲さん:正直、当時は父のことが好きではありませんでした。九州男児で不器用で、礼儀作法や食事マナーには異常なほど厳しく、反発心ばかりが募っていました。父は相撲という勝負の世界しか知らず、娘の育て方がわからなかったのだと、自分が親になった今なら理解できます。しかし当時は、父の不在を寂しいと思う余裕すらないほど、その存在自体が怖かったですね。
そんな父との唯一と言っていい家族らしい思い出は、2019年に父が亡くなる直前の2週間です。病室で母と私と3人、文字通り「川の字」になって寝たのですが、その時に「ああ、初めて3人で川の字になれたな」としみじみ感じました。病院のベッドのかたわらで、ようやく手に入れた普通の家族の時間。亡くなる寸前に不器用な父と心が通い合った気がしました。
父への反発心から目指した宝塚への道
── 相撲部屋で厳しい父親に育てられた天咲さんですが、高校在学中に、宝塚歌劇団に進むことになります。これまでの環境とは大きく異なる印象ですが、目指したのはなぜでしょうか?
天咲さん:一番の動機は、非常にシンプルですが、親元を離れたいという強い意志でした。父は中学を卒業してすぐに地方から出てきた力士たちを心から愛しており、事あるごとに私に対して「お前は親元でぬくぬく育って」と少し突き放すように言っていたんです。私は、それが悔しくて、悔しくてたまらなかった。「だったら私も親元を離れて、お父さんの知らない世界で生きてやる」という、売り言葉に買い言葉のような反発心があったのだと思います。
幼少期からバレエを習っていたこともあり、全寮制で、しかも親の力がいっさい及ばない宝塚という場所なら、物理的にも精神的にも自立できると考えました。父が認める厳しさを、私なりのフィールドで証明したかったんです。
── 宝塚学校の受験を決めたときのお父さんの反応は。
天咲さん:案の定、猛反対されました。「ぬくぬく育って」と言いつつも、父は人一倍、娘を傷つかせたくないという心配性な一面を持っていたんです。高校1年生という多感な時期に、娘が不合格という挫折を味わうかもしれないこと、何より自分の手の届かない場所へ行くことが怖かったのだと思います。
私が受験すると言い出したとき、父は母に対して「お前のせいで娘がこんなことを言い出したんだ!」と怒鳴り散らし、そのまま寝室に閉じこもって出てこなくなってしまったほどです。
それでも、合格発表の日は誰よりもソワソワしていたようで。合格発表は午前9時からだったのですが、父は午前8時から1分おきに母の携帯へ電話をかけて、「まだか、まだか」と。実際に合格を伝えたときは、あの厳格な父が、人目も憚らず大号泣していたと後で聞きました。不器用な愛情表現しかできない、父なりの祝福だったのかもしれません。