「余命半年」の選択に迷いはなかったものの

── 余命半年…。本当に迷いはなかったんですか?

 

河内家さん:迷いはありませんでした。9歳で師匠である父に入門し、子どものころから河内音頭一筋でやってきたので、重たいものを持てるわけでもなく、他にできることもありません。17歳でプロになって、ちょうど50歳。次の夏で思い残すことなく、思う存分、河内音頭を歌って、これで終わろうと決めました。表現が難しいのですが、さっぱりした気分で「もう、そうするんだ」という覚悟が定まったんです。

 

── しかし、今生きているということは…。

 

河内家さん:病状を所属先の吉本興業に報告すると、当時の社長が「気持ちはわかるけど、手術したほうがいいのではないか?」と。「いや、手術したら歌えなくなりますし、手術しなければ半年で死ぬと言われています」と話すと、社長に「早まらずに3日ほど待て」と言われました。「これだけ医学が発展しているのだから、きっとどこかに、がんを取り除き、かつ、声帯も残してくれる先生がいるはず、探すから」と。その時点で私は完全にあきらめており、セカンドオピニオンなど、他の病院にあたるつもりもありませんでした。

 

河内家菊水丸
数えきれないほど河内音頭を唄い続けてきた河内家菊水丸さん

── 心強い味方に恵まれたんですね。

 

河内家さん:数日して連絡があり、社長から「もし、がんを取って声帯を残せる手術ができる先生が仮にいたら、 地球の裏側でも行きたいか?」と聞かれ、「そんな先生がいるなら、もちろん行きます」と答えました。そして、チェルノブイリ原発事故で被爆した人たちに甲状腺がんが多く、その患者さんたちにとても頼りにされている先生がいて、声帯を残す手術ができるらしいという話を聞きました。その瞬間、まるで一条の光が差してきたような気持ちになりました。

 

その後、会社に呼ばれて社長から「声帯を残す手術ができる先生が見つかった」と、告げられました。「交通費自前で行くつもりあるか?」と聞かれたので、「どこでも行きます!」と答えると、「ここ(難波)からタクシーで2メーターくらい」と(笑)。「大阪警察病院や。チェルノブイリの患者さんがたくさん来ている」と教えてもらいました。