猪木さんに誘われ開戦直前のイラクで平和音頭
── 当時、♫カーカキンキンカーキンキン♫という軽妙なリズムは、私も耳から離れません。関東で非常に高い認知度を記録したとか。河内家さんは世界各地で河内音頭を歌っていますが、北朝鮮、ソ連、キューバ、ガダルカナル、北方四島・色丹島、東ティモールなど渡航しづらい地域での公演も多いですね。
1990年、湾岸戦争直前のイラクでアントニオ猪木さんと公演されましたが、これはどのような経緯で?
河内家さん:アントニオ猪木さんが所属する新日本プロレスは当時、なんばグランド花月で試合をしていたんです。その流れで、アントニオ猪木さんと西川きよしさんが議員対談をするイベントがあって、私がそこで歌を歌うことに。当初は「新日本プロレス物語」を歌う予定でしたが、私の少年時代からのヒーローである猪木さんが舞台袖からジーっと見ていらっしゃるので、急遽、テーマをアントニオ猪木物語に変えたんです。
猪木さんの長年の夢だった「モハメド・アリと戦いジャイアント馬場を超えた」のくだりで、猪木さんがうなずいてくれているのがわかりました。歌い終えて舞台から降りたところ、猪木さんが褒めてくだいながら「イラク行きましょう」って(笑)。あまりに突然のことでしたが、少年時代からのヒーローに誘われたので「はい!」と答えましたが、私はイラクについてほとんど知りませんでした。
早速「イラクってどんなところだろう?」と書店に行ってもイラク関連の本は手に入りません。湾岸危機のため、外務省の海外安全情報(危険情報)が最高レベルだったんです。さらに新聞を読んで調べていくと、イラクのクウェート侵攻に国際社会からの厳しい批判が集まっているとわかり、イラク渡航をどう断るか、考えているうちに出発当日を迎えてしまいました。
── では、積極的にイラクに行ったわけではなかったのですね。
河内家さん:不安でいっぱいでした。当時の報道によると、イラクは外国人の人質を「人間の盾」として、戦略的に重要な軍事基地に配備したんです。日本にいるご家族が、日本政府に人質救助を要請しましたが、日本政府は簡単には動きませんでした。さらに、ご家族は議員会館もまわって救助を訴えましたが、誰も話を聞いてくれず、最終的に参議院議員だった猪木さんが引き受けたんです。猪木さんは「イラクで平和の祭典を開催し、民間・スポーツ交流を行い、我々は戦争を望んでいないとフセイン大統領に伝えよう」という企画を立てました。ちょうど猪木さんが平和の祭典を行うメンバーを探す中で、私に声をかけてくださったんです。
イラクまでは飛行機で35時間かかりました。私は「世の中に善と悪しかないものか、もし戦争になったら、アメリカの弾で死ぬイラクの子どもたち、イラクの弾で死ぬアメリカの子どもたち、流れる血潮に国境なし」といった内容の平和音頭を歌いました。
これはイラク国営放送で全土に流れ、フセイン大統領(当時)もテレビ中継で見ていたそうです。日本語で歌ったので、舞台上のスクリーンに字幕でアラビア語翻訳を表示してもらったのですが、失敗をしてしまいました。日本語と異なり、アラビア語は「右→左」に読むんですね。そうとは知らなくて、「左→右」に指をさしていると、お客さんがクスクス笑っていて(笑)。でも、人質解放をめぐる緊迫したムードの中で客席との距離がちょっと縮まった気がしてホッとしました。
── 多くのイラク国民がその中継を見たのでしょうね。公演以外の思い出はありますか?
河内家さん:泊まったホテルの名前は、パレスチナホテル。部屋からはチグリス・ユーフラテス川が交わる三角州が見えました。世界史の最初に出てきたメソポタミア文明を思い出して、どうしてもバビロン遺跡に行きたくなりました。そこで、ホテルから抜け出して、タクシーをチャーターして2時間かけてバビロン遺跡に行き、写真撮りまくり、帰ってきてから猪木さんの秘書に、危険だとめちゃくちゃ怒られました(笑)。でも、自分の人生でここに来ることはもうないだろうと思うと、どうしても見たかったんですよねぇ。

── それは怒られますね(笑)。目的だった人質の解放はいつ?
河内家さん:平和の祭典終了後、まだ私たちがイラクに滞在しているときに、人質解放はほぼ決定しました。その知らせを聞いて、駐イラク日本大使館で最後に打ち上げをしたときは、みんなで「1、2、3、ダァーッ!」をやりました。
しかし、手配されていた日本行きのチャーター便は満席。解放される人質36名分の座席を誰かが空けて、人質が帰国するための席を確保しなければならなかったんです。「誰がイラクに残るか」と聞かれ、猪木さんや同行していた新日本プロレスの人たち、まだ若かった長州力さん、蝶野正洋さん、佐々木健介さんたちを含む全員が迷わずに手を挙げたのには驚きました。
日本人人質が解放されたとしても、いつ攻撃を受けるかわからない状況ですよ。我々菊水丸一座6名は誰も手を挙げず、帰国後も興行予定があるので先に帰らせてもらいました(笑)。あのとき残る選択をした人たちはすごいと思います。