盆踊りシーズン到来。大阪の夏の風物詩・河内音頭を全国に知らしめた河内家菊水丸さんは今も地域の盆踊りで歌い、夏の2か月間で、1年分働き続ける生活を送っています。46年もの間には、開戦直前のイラクで歌い日本人人質解放に貢献するなど、驚くべき経験もしてきました。
客席ガラガラからCM抜擢で全国デビューへ
── CMソング「カーキン音頭」で全国に知られ、その後もロックやレゲエなどを取り入れて河内音頭の可能性を広げてきた、伝統河内音頭承継者の河内家菊水丸さん。2025大阪・関西万博では8000人の盆踊りを実現しました。河内音頭との出合いは?
河内家さん:父・河内家菊水は河内音頭の師匠・音頭取りだったので、私も幼いころから河内音頭に興味を抱きました。70年の大阪万博のときは、母に頼み、万博で行われた「日本のまつり」というイベントに連れて行ってもらいました。全国各地の民謡が披露されるイベントなのに、その中に河内音頭が入っておらず、子ども心に大変傷ついたんです。そのときから、「(いつ日本で次に開かれるかわからないけれど)万博で河内音頭を歌う」ことが夢になりました。その後、9歳で父に入門、17歳でプロになり、劇場で河内音頭を歌ってほしいと誘いを受け、吉本興業に所属しました。
── 祭りの櫓(やぐら)の上から、劇場へ。客席の反応は?
河内家さん:私が吉本興業から声をかけてもらったのは、お盆に旧なんば花月劇場で行う興行への出演依頼がきっかけです。若い日の笑福亭仁鶴さんや明石家さんまさんなど、豪華メンバーのなかに夏の風物詩である大阪の盆踊りを代表する河内音頭を行うため、17歳で新人の私が選ばれました。誘われた時点では、まだ漫才ブームの兆しはなく、客席には高齢のお客さんが多かったんです。
しかし、私が旧なんば花月劇場にデビューした年に漫才ブームが到来し「横山やすし・西川きよし」「ザ・ぼんち」などを見に来る若者が増加。客層がガラッと変わりました。漫才が終わって私が出ていくと、8、9割のお客さんがトイレなどで席を立ってしまい、荷物だけ置かれたガラガラの客席を前に、初舞台の洗礼を浴びました。このとき、これまで覚えた盆踊りの河内音頭だけではお客さんは振り向いてくれない、と痛感したのが、最初の大きな転機です。

なんとか聞いてもらおうと、河内音頭をロックやレゲエ風にしてみたり、時事ネタをとりいれた新聞(しんもん)詠みを創作したりしました。やがてワールドミュージックブームが来て、民謡に陽があたり、「河内音頭という伝統芸能にロックやレゲエを取り入れた変わり者がいる」と、リクルートのCMソング「カーキン音頭」に起用されました。以来、仕事が激増して、紅白歌合戦にも出場できたんです。