2021年に開催された東京パラリンピックにおいて、パラサイクリング女子個人ロードレースで金メダルを獲得した杉浦佳子さん。趣味で始めたロードレースで大事故に遭い、一時は深刻な脳損傷を負いました。「もう薬剤師には戻れません」と医師に宣告されるも「絶対に戻る」と決意したという杉浦さんには、並々ならぬ思いがありました。

体型崩れを指摘されマラソンを始めたら才能が開花

── 薬剤師として調剤薬局に勤務するかたわら、20代後半にマラソン、30代後半にトライアスロン、40代で自転車のロードレースを始められたそうですね。

 

杉浦佳子
子育てをしながら調剤薬局で勤務していた35歳ごろの杉浦さん

杉浦さん:子どもが小学校に入学して自分の時間が少し作れるようになった20代後半、夫から「体型が崩れてきたんじゃない?」と指摘されたのが最初のきっかけでした。自分でも気になり始めて、休みの日にスポーツジムに通うようになったんです。あるとき、そのジムで「フルマラソンに参加しませんか?」というポスターを見かけて。「これって普通の人でもできるんですか?」ってジムの方に聞いたら「誰でも練習をすれば参加できますよ」って言うんです。それで、20代最後の記念に出場してみようと思いました。

 

── いきなりフルマラソンに挑戦しようと考えられたことがまず驚きです。

 

杉浦さん:トレーニングは29歳から始めました。30歳になる3週間前にレースに出てフルマラソンをどうにか完走できて、ものすごい達成感がありました。元々目標を掲げて達成するのが好きなタイプだったから、30代はもっとすごいことがやりたいと考えて。近所にできた自転車ショップで初めてトライアスロンバイクを見てひと目惚れし、次はこれをやろうと思いつきました。

 

ちょうど第2子を出産したあとだったので、育児をしながら合間にトレーニングをして。宮古島トライアスロンに出たいと目標を設定しました。最初に水泳を3キロ、次にバイクで157キロ、最後にマラソンで42.195キロ。フルマラソンは完走したことがあったので、あとは水泳とバイクができれば出られると単純に考えたんです。

 

── 有言実行で、38歳で初めてトライアスロンに出場されたそうですね。

 

杉浦さん:完走できたときは本当に感動しました。フルマラソンを完走したとき以上に達成感がありました。夜に花火が上がるなかをゴールするんです。『あと少し頑張ろう』って知らない人同士、声をかけ合って頑張る。それがすごく楽しくて。30代のいい記念になったので、40代でも何か大きな目標に挑戦したいと考えていたとき、自転車競技をやっている実業団から声がかかって。たまたまいくつかのトライアスロンのレースに出場していたのが目にとまったようでした。

40代で始めたロードレースで大事故、重度の脳損傷を

── 普通の会社員だったのに、趣味で始めた自転車でそこまでステップアップされるとは。ものすごい才能ですね。ところが、そのロードレース中に事故に遭われたと…。

 

杉浦さん:当時は『アイアンマンレース』というトライアスロンの世界選手権への出場を目標にしていました。フルタイムで働きながら、競技の練習もしていたので、効率よく練習するメニューをマネージャーに作ってもらっていて、その練習の一環で出場したロードレースで、事故に遭いました。

 

そのときの記憶はまったくないんです。当時の状況を目撃した方によると、下り坂を集団で走行中に、突然、吹っ飛んでいったそうで。下り坂なので50〜60キロのスピードは出ていたと思います。頭から落下したようですが、気づいたら病院のベッドの上でした。

 

── 事故の瞬間は覚えていないほど、強い衝撃だったのでしょうね…。

 

杉浦さん:頭から地面に激突し、重度の脳損傷を負いました。しかも、事故の後遺症で、右半身にまひが残り、高次脳機能障害も併発してしまって。私は特に記憶と言語に異常が出て、10分しか記憶が継続しない状態が続きました。主治医の先生には「初めまして」と毎日のように言っていたそうです。

 

当時は病院から渡されたノートに、その日あったことを書き留めることを習慣にしていて。あとで読み返したら「友達の名前を思い出したって先生に言ったら『それは明日には忘れちゃうんですよ』と言われた」などと書いていました。しばらくは書き留めていたことを読み直してもすぐに思い出せない状態でしたが、「こんなことがあったんだな」とノートを読んで毎日振り返っていたようです。

 

── それはきっと不安だったでしょうね…。入院生活はどれくらい続いたのですか?

 

杉浦さん:病院側が想定していたより回復が早かったようで、2か月で退院しました。でも最初は「退院ができないし、これまでと同じように日常生活を送るのは難しいかもしれない。薬剤師には戻れないだろう」と告げられていました。ケガの具合はそれくらい深刻で、いったんリハビリ専門病院に入院した後は、自宅ではなく別の施設に移ることになっていたそうで。リハビリ専門病院は車いすの準備もしてくれていたんです。