「私がそうさせたかも」と思う気持ちもあった

── 離婚を決めたと伝えたとき、周囲の方はどんな反応でしたか。

 

松原さん:じつは結婚するとき、周りの人たちから「あの人だけはやめなさい」と猛反対されていたんです。でも、そう言われるとかえって意固地になって「それなら、私がこの人を変えてみせる」なんて思ってしまって。恋は盲目ってこういうことなんだなと、後になって痛感しました。離婚を伝えると、業界の先輩方から「本当によかった」「あとは、のぶえが頑張るしかないよ」と、声をかけてもらいました。みなさんはずっと心配してくれていたんですね。

 

── ご自身の名義で作られた多額の借金。裏切られたという怒りや恨みも大きかったのではないでしょうか。

 

松原さん:もちろんショックでした。でも、どこかで「私が夫をそうさせてしまったのかもしれない」と思う気持ちもあったんです。ずっと何も言わず、任せきりにしてしまったのは私ですから。

 

── 私生活でこれほど大きなトラブルを抱えながら、ステージでは何事もないように笑顔で歌い続けなければならない。どんな思いで舞台に立っていらしたのでしょう。

 

松原さん:どれほど私生活が混乱していても、お客さんには関係のないことです。舞台では笑顔でいなければいけません。正直つらい思いはありました。一方で、家の恥だと思うと、周りの誰にも話せませんでした。報道が出たときには、「恥ずかしくて、もう人前には出られない。歌手を辞めよう」とまで思いました。それでも、周囲に支えてもらいながら、何とか乗り越えることができました。

 

松原のぶえ 廣原伸輝
実弟で事務所社長の廣原伸輝さんと。家族として、仕事のパートナーとして支え合ってきた

── 離婚後、事務所を引き継いだのは弟の廣原伸輝さんでした。

 

松原さん:ゼロどころか、私名義の借金を抱えた大幅なマイナスからの出発でした。ほかに引き受けられる人がおらず、弟がやるしかなかったんです。元夫が作った借金は今も残っていて、現在も返済を続けています。社長になったことで弟は本来なら背負わなくていい苦労を背負い、私には言えないような大変な思いもたくさんしているはずです。それでも私を支え続けてくれている。今、私がこうして歌い続けられているのは、間違いなく弟のおかげですね。

「あと何回歌えるのか」1日でも長く…の思い

── 弟さんと二人三脚で、マイナスからの再出発を切り抜けられたのですね。しかしその後、今度はご自身の腎臓病が悪化するという大きな試練が立ちはだかりました。その頃、一般の方に向けてカラオケ教室も始められていますが、プロの歌手が直接指導されるのは珍しいことだと思います。どのような思いがあったのでしょうか。

 

松原さん:ちょうど人工透析を受けていた頃で、少しずつ声が出づらくなり、「このまま歌えなくなるのではないか」と不安になったんです。でも、私はこれまで歌しかやってこなかった。もし「明日から歌えません」となったら、ほかにできることが何もありません。それなら、何十年も歌ってきたなかで身につけたことを、歌が好きな方に少しでも伝えられたらと思い、始めました。

 

すでに別の先生に習い、その教えを大切にしている方もいました。私が提案しても「でも先生からはこう教わりました」と言われることもあって。そういうときは否定せず、「今の歌い方を大切にしてください。違う歌い方を試したくなったときに、取り入れてみてくださいね」と伝えました。もっと歌を好きになってもらえたらと思っていましたね。その後、腎臓の病気が回復して声も出るようになったので、指導はやめて本業に戻りました。

 

── デビューから半世紀近くが経ち、歌を取り巻く環境も大きく変わりました。これからの歌手人生をどのように思い描いていますか。

 

松原さん:今は「次に何をやりたいか」より、「あと何年、今のように歌えるだろう」と考えることのほうが多いですね。この仕事には絶対がありません。コロナ禍を境に、それまでお付き合いのあった興行会社がなくなり、演歌を扱う地上波のテレビ番組も少なくなりました。「この先どうなるんだろう」「老後は田舎に帰るんだろうな」と、ふと考えることもあります。不安がないと言えば嘘になりますね。

 

でも、今はあれもこれもと先の目標を掲げるより、1日でも長く人前に立って歌いたい。そのために、目の前の1回1回を大切にしたいと思っています。それを続けていれば、また「あれもやりたい、これもやりたい」という気力が湧いてくるのかもしれません。

 

取材・文:西尾英子 写真:松原のぶえ