弟が腎臓提供を迷わなかったふたつの理由

── 事前に相談がなかったのは、「言えば拒否されるかもしれない」という不安が弟さんにあったからでしょうか。

 

松原さん:そうした不安すらもあまり考えていなかったみたいですね。自分のリスクについても「調べたところで、すべてを把握しきれるわけではないから」と。あまりにケロッとしているものだから、逆に私のほうがとまどってしまったくらいです。もし私が逆の立場だったら、そんなにすぐ「じゃあ私が」と言えたかどうか。弟は独身で子どもはいませんが、業界をよく理解しているパートナーがいて、彼女も提供に賛成してくれたそうです。

 

母も「私の腎臓を」と申し出てくれたのですが、「ドナーは少しでも若いほうがいいから」と、弟は九州の実家まで行って母を説得してくれたんです。年老いた母の体に負担をかけたくないという、弟なりの思いもあったのでしょう。

 

── 弟さんはなぜそこまで迷わずに決断できたのでしょう。

 

松原さん:臓器を提供する側は「もしものことがあったら」と躊躇するのがふつうですよね。でも弟が迷わなかったのには、彼なりの理由があったようです。ひとつは透析を続ける私のつらそうな姿を見るのが家族として苦しかったこと。同時に事務所の社長として、絶対に外せない仕事を抱える歌手を支える立場でもある。家族としての思いと社長としての責任の両方があったから、迷う余地がなかったのかなと思います。

 

── 手術は、O型の松原さんにB型の弟さんの腎臓を移植する血液型不適合移植(ドナーとレシピエントの血液型が異なっていても行える移植)だったそうですね。準備は順調に進んだのでしょうか。

 

松原さん:弟の腎臓を私の体が受け入れられるよう体内の抗体を抑える処置をするのですが、それがまた大変でした。あるとき、鏡を見たら、まるでお岩さんのように目が膨れ上がり、顔がボコボコになっていました。処置に伴う反応で落ち着けば大丈夫だと説明されましたが、手術まではやはり不安でしたね。

 

── 手術を終えて目を覚ましたとき、真っ先に頭に浮かんだのはどんなことでしたか。

 

松原さん:手術が無事に終わったという安心感よりも、まず弟のことが気になってしかたありませんでした。そばにいた先生に「弟はどうなりましたか?」と聞いたんです。すると先生が、「弟さん、麻酔から覚めていちばんに『姉はどうなりましたか?』って聞いていましたよ」と、教えてくださいました。

生きる実感「もうムダにはしない」

── 術後の第一声が互いの無事をたずねる言葉だった。絆の深さを感じます。

 

松原さん:弟が点滴をつけたまま部屋に来てくれたとき、「よかった、元気そうだ」と、心から安心しました。部屋に入るなり、弟が何か冗談を言って、母も笑い出して。気づけば私も泣くより先に笑っていましたね。まだ麻酔が完全に切れていなかったのか、何を言ったのかは思い出せないんですけど。あとで弟に聞いても「俺も覚えてない」と言っていました。

 

── 移植手術は終わっても、拒絶反応などのリスクが残ります。術後の経過は順調だったのでしょうか。

 

松原さん:なかなか尿が出ず、点滴をしても体がむくみ、先生たちが首をかしげているのを見て「手術は失敗したんだ」と思いました。本来なら手術した日から歩けるはずなのに、3、4日寝たきりで。ですがその後、点滴を外すとようやくむくみが引いて歩けるようになりました。

 

松原のぶえ
満員の客席を前に歌う松原さん。全国各地の舞台に立ち続けてきた

── 移植から17年。弟さんから譲り受けた腎臓が、今も松原さんのなかで息づいています。このできごとを経て、弟さんとの関係性に変化はありましたか。

 

松原さん:弟のおかげで、こうして今も元気に歌い続けることができています。本当に「生かされている」という感覚がありますね。ただ、これまでなら少しわがままを言っていたような場面でも、これからはもう弟の言うことを素直に聞かなきゃいけない。もう一生、頭が上がらないなと(笑)。

 

── きょうだいゲンカも、うかつにはできなくなったと(笑)。

 

松原さん:そうなんです(笑)。以前なら「この仕事はちょっとやりたくないな」とためらっていたものも、今は「社長が私のことを考えていれた仕事だから、まずはやってみよう」と。弟に対する信頼感はさらに揺るぎないものになりました。

 

そのぶん、弟の体に少しでも変化があると、すごく気になってしまうんです。肩まわりがひと回り小さく見えて「どこか具合でも悪いの?」と心配して聞いたら「今、ダイエットしてるんだよ」と言われてホッとしたり。少し疲れて見えるだけでも、すぐに心配になりますね。

 

── 弟さんに命をつないでもらったことは、松原さんにとって「生きること」の意味をどう変えたのでしょう。

 

松原さん:もう自分ひとりの体ではない、大切にしなければという気持ちが強くなり、不摂生もいっさいなくなりました。私が不摂生をして倒れたりすれば、私のために体を削ってくれた弟をいちばんに悲しませてしまいますから。自分の健康管理は、大切な家族に対する責任でもあるんですよね。そう気づいてからは、生きていること、何気ない日常のすべてにありがたさを感じます。

 

取材・文:西尾英子 写真:松原のぶえ