1980年代に大ブームを巻き起こした、女子プロレスのオーディションに17歳で合格した西脇充子さん。クラッシュ・ギャルズの後継コンビを担うも6年で引退。その後、アメリカ留学や歌手も経験。そして、人生を左右する卵巣がんと向き合い、夫となる魁皇(現・浅香山親方)とも出会います。数奇な運命がたぐり寄せた縁でもあったそうで。

親に内緒で女子プロ選手募集に履歴書を送り

── 元女子プロレスラーで元大関の魁皇(現・浅香山親方)と結婚し、現在は浅香山部屋のおかみさんでもある西脇さんが、女子プロレスを志したきっかけを教えてください。

 

西脇さん:私が女子プロレスの道を目指したきっかけは、初代タイガーマスク・佐山聡さんの存在です。追っかけをするほど憧れていて、そこから女子プロレスにも関心を持つようになったんです。そんなある日、女子プロレスの新人オーディションがあることを知りました。全女(全日本女子プロレス)というと、当時、爆発的な人気を博していたクラッシュ・ギャルズさんや、ダンプ松本さんが所属していましたから、もういてもたってもいられなくて、親に内緒で履歴書を送ったんです。

 

当時は岐阜に住む高校1年生。剣道をやっていて、体も大きかったから「もしかしたらいけるかな」と思って。そうしたら、1次の合格通知が来たんですよ。両親は応募を知らない、でも「やりたい!」。それで、思いを綴った手紙を書いて、お父さんが読む朝刊に挟んでおいたんです。

 

それを読んで父は「やってみたいなら、行け」と背中を押してくれて。父と姉は東京のオーディション会場であるフジテレビにまで付き添ってくれました。到着すると、2000人という想像を超える数の女の子が集まっていました。

 

西脇充子
岐阜県で剣道部に所属していた高校1年生の頃

── 全国から2000人も集まるとは、当時の女子プロレス人気がわかりますね。

 

西脇さん:はい、もうその数に圧倒されて「これムリだろうな」と思いましたけど、その日の選考で通過する合格メンバーの10名に残ったんです。父も姉も私が会場からなかなか戻ってこないから探しに行くと、「残ってる!」みたいな(笑)。

 

オーディションは基礎体力の審査と面接でした。そのときにジャガー横田さんとクラッシュ・ギャルズのおふたりもいましたが、緊張していたので何を話したかも覚えていません。東京に来ていることだけでも緊張していましたから。合格メンバーに、同期の北斗晶が残っていたことも覚えていないんですよ。思わぬ展開に父も喜んでいましたが、同時に娘を送り出さなければいけないことも実感したようです。合格が12月で、翌年3月には寮に入所。高校は2年で中退することになりました。

 

岐阜から上京したのは1985年、17歳のとき。大スターのダンプ松本さんやクラッシュ・ギャルズの先輩たちが巡業から帰ってくるのを、事務所で緊張に震えながら整列して待っていたのを思い出します。当時の女子プロレスブームはすさまじく、事務所にも大勢のファンが出待ちしていて、ファンの女の子たちが興奮して移動車のバスを揺らすぐらいでした。

 

── 入所してからはどのような日々だったのでしょうか?

 

西脇さん:毎日が特訓の日々です。優秀な子は巡業にもどんどん連れていかれるようになるのですが、私はあまり優秀じゃなかったから、残って練習ばかりしていました。練習はやはり、きつかったです。とにかく受け身の練習。実践的な体の動きや受け身を覚えないと大ケガしますから。女子プロレスは各選手ごとに技があるので、それを試合中にファンのみなさんに見せなければいけない。相手の技をいかにきれいに受けて、こちらの技を魅せるかがプロ。勝負の世界ですから、本気の戦いではありますが、同時に「ショー」として魅せる面もあるのがプロレスなので。

 

── 危険とつねに隣り合わせですから、練習は過酷そうですね。

 

西脇さん:今と違って当時は「水は飲むな」という時代で、精神的にも体力的にもとにかく歯を食いしばってやるしかない過酷なものでした。「100発投げ」というのが恒例で、先輩10人から1人10発ずつ投げられるんですよ。それがすごくきつかったですね。当初16人いた新人も、練習の過酷さゆえどんどん辞めていき、最後まで残ったのはわずか4人でした。

 

また、新人は移動に使うバスの掃除を順番に担当するんですけど、ゴミが1個でも残っていたら、罰として1週間掃除をしないといけないんです。しかも、ちょっと意地悪する先輩がいるわけですよ。窓のサッシのスキマの見えないところに団子の串が刺さっていて、「今日のバス掃除、誰?」と呼び出されて行くと「これは?」みたいな。それで怒られて、1週間掃除する羽目になったり。

 

バス移動でもルールがあり、先輩は2席ずつ使って後方に。新人の席はいちばん前と決まっていました。「おい、新人」と、急に歌わされることもありました。そういう上下関係みたいなものも、集団生活のなかではたくさんありましたね。

「何をやってもたちうちできない」6年で引退

── 85年にデビュー戦を迎え、期待される選手のひとりとして注目を集めていましたが、その頃の様子を教えてください。

 

西脇さん:当時は悪役のヒールを演じるダンプ松本さんたちのおかげで、いわゆるヒーロー役のベビーフェイス、クラッシュ・ギャルズが輝く構図になっていました。私も当初は悪役希望で、次第に試合に出られるようになったので要望を伝えたのですが、会社から「ヒールはダメだ、お前はベビーフェイスで行け」と。それでベビーフェイスのクラッシュ・ギャルズの付き人をすることになり、試合では堀田祐美子とペアを組むことになりました。

 

ペアの堀田とはめちゃくちゃ仲がよかったです。でもね、ペアって、仲がいいとダメなんです。ある程度、距離感があって意識し合う、ライバル関係のほうがいいんですよ。私は部屋も一緒がいいし、バスも隣に座るほど仲がよすぎたから「お前らは仲がいいからダメだ」って言われていました。

 

クラッシュ・ギャルズに続けと、私たち2人でアイドル・タッグチーム「ファイヤー・ジェッツ」を結成することになるのですが、到底、クラッシュ・ギャルズを超えることはできなくて。あそこまで怪物みたいなスターがいると、もう何をやっても立ち打ちできない。歌を出そうが何をしようが、かないません。その頃には、女子プロのブームも下火になってきて、引退することを決めたんです。今思うとプロレスをやっていたのは6年ほどなんですけど、濃い時間でしたね。