「お前は種から育つんじゃなくて、苗木の状態からのスタート。(自分の道を築く)近い将来まで、ずっと俺の名前がついて回るよ」。2004年に俳優デビューした当初、兄の窪塚洋介さんからそう告げられたという俊介さん。最初の頃に受けたインタビューでは「また洋介の話?」と思うこともあったそうですが、お兄さんの存在はつねにポジティブに捉えていたそうです。
エンジニアの父が告げた「留学してみたら」

── 窪塚さんは2004年に俳優デビューされました。当時、お兄さんの洋介さんはすでに『池袋ウエストゲートパーク』や『GO』などでカリスマ的な人気を得られていましたが、俳優を志したのはお兄さんの影響もあったのでしょうか?
窪塚さん:もちろん、兄が仕事をしているのを間近で見ていたので、影響はありました。でも、僕が本気で俳優を志したのは、大学4年生のときにアメリカ留学したことがいちばんのきっかけになったと思います。
僕はもともと映画が好きで、10代の頃から『スタンド・バイ・ミー』や『グーニーズ』、『バック・トゥ・ザ・フューチャー』といった洋画の世界や、そこで活躍する海外の俳優さんに憧れを持っていたんですよね。でも、当時はそういう仕事をしたいと思っていたわけではなく、生意気にも「この字幕は違うんじゃないのかな」と感じることがあって、漠然と英語を学びたいという思いがありました。
ただ、留学に関してはすぐに気持ちが動いたわけではなく。僕が大学に入学したぐらいのときに父親が「留学してみれば?」と言ってくれたんです。
── 留学はお父さんからの提案だったんですね。
窪塚さん:うちの父親は自動車関係のエンジニアで、海外で仕事をすることもあって、英語の必要性をすごく感じていたみたいです。それで「留学してみれば?」と言ってくれたんですけど、当時の僕はあまりリアリティを感じてなくて。でも、いざ卒業だ、就職だ、となったときに、自分には実際にやりたいことがないと気づいたんです。だから「ひとまず留学してみよう」じゃないけど、最初は「自分を見つめ直す時間」を持つ意味が強かったように思います。それで大学を休学してアメリカに行くことにしました。
── 留学先のアメリカでは、アル・パチーノやロバート・デ・ニーロなど数々の名優を輩出した名門「The Lee Strasberg Institute」に入学されました。この学校を選んだ理由は?
窪塚さん:俳優になりたかったからではなく、「アメリカで何をするか」と考えたときに、ただ語学学校に通うだけではもったいないと感じ、せっかくなら好きだった映画関係の学校に入ろうと思ったんです。そうしたら、「演劇こそ至高なもの」という考えの学校で、あれだけ有名な映画俳優を輩出しているのに「あなたは映画に行きなさい」といった具合に、映画を少し格下に見ているような雰囲気があって。それには驚きました(笑)。
──「The Lee Strasberg Institute」には、どれぐらい通われていたのですか?
窪塚さん:フルタイムで通えば、1年半か2年ぐらいで卒業できるのですが、僕は日本の大学の卒業もかかっていたので、そこまでは通えませんでした。だから、演劇学校はきちんと卒業できていないんですけど、日本で俳優になった後に再訪したら、「プロとして仕事をしているなら、籍はずっと残っているよ」と言ってくれて。ただ、それも20年以上も昔の話なので、今はどうなっているのかわかりません(笑)。
窪塚洋介の弟という兄の七光りも
── 留学後、俳優デビューされますが、「窪塚洋介の弟」と称されることが多かったと思います。当時、どのような思いを抱いていましたか?
窪塚さん:「まあ、そうだよな」と思う反面、やっぱり最初の頃は何をやっても兄貴の名前が出てくるので、「また洋介の話?」と思うことがあったのはたしかです。
ただ、親の七光りじゃなく兄弟だったのは、今振り返ると、めちゃくちゃラッキーだったと思います。実際、僕がアメリカから帰ってきて「俳優の仕事をする」となったときに洋介にも相談しましたが、そのときに洋介が「お前は種から育つんじゃなくて、苗木の状態からのスタート。(自分の道を築く)近い将来まで、ずっと俺の名前がついて回るよ」と言っていて。自分としてもそれをわかっていた状態だったので、兄貴のことはポジティブに捉えることのほうが多かったですね。
── 留学後、俳優デビューだけでなく大学も卒業されています。慶応義塾大学理工学部のご卒業だったと思いますが、普通に就職してエリートの道を進む将来もあったのに、あえてお兄さんと同じ職業を選んだ理由は?
窪塚さん:「せっかく慶応まで行ったのにもったいない」と言う人もいましたが、自分としてはそういう思いはまったくありませんでした。もちろん、別の道を選んでいたらまた違った未来があったのかもしれませんが、僕は自分がやりたい道を進んできただけですね。
と同時に、当時の兄貴はすでに俳優としてのポジションを確立していたので、それなのに同じ道を志すのは「すごいね」と言ってくれた友達もたくさんいました。そういう仲間の力というか、自分を支えてくれた人たちの力もあったと思います。
── お兄さんに対するプレッシャーはありませんでしたか?
窪塚さん:20代のときは兄貴へのプレッシャーというよりも、「自分探し」みたいなところがあったので、良くも悪くもやってこられたのかなと。「また洋介の話か」となることがあったとしても、洋介のことはお兄ちゃんとして好きだし、そこは家族の話ですからね。
だから、正直、洋介の存在が自分に影響した部分はあまりないですね。今でこそ同じ事務所なので必然的に仕事の話をすることもありますが、当時は仕事の話はほとんどしませんでしたから。そう、仕事と恋愛の話はいっさい、洋介にしませんでしたね(笑)。
── 俳優としての最初の現場は、高橋伴明監督の『火火』でした。初めてプロの現場を経験するときにも、お兄さんに相談されたりしなかったのでしょうか?
窪塚さん:しませんでした。というより、そのときは兄が事故を起こしてしまったタイミングでもあったので、それどころではなくて。それこそ洋介から言われたのは最初の「俺の名前がついて回ってくるぞ」ぐらいで、自分としても兄貴のジャッジが欲しくてやっているわけじゃないし、洋介もそういう人間ではないですから。口には出さないけど、「応援している」という気持ちで見守ってくれていたんじゃないですかね。
── 先ほどのお話に出たお兄さんの事故。世間を騒がすことになりましたが、弟としてどう見ていましたか?
窪塚さん:僕が兄の事故に関して話すのは少し憚られますが、当時は驚きしかなく、本当にショックでした。ただ、テレビで騒がれていたことが「真実ではない」というところで、真実だけが報道されるわけではない、という現実を目の当たりにした感じでした。それでも弟としては「兄が生きていてくれてよかった」と心から思いました。
── その後、お兄さんは不死鳥のように復活を遂げられ、今に至ります。
窪塚さん:本人からすれば大変だったと思いますけど、やっぱり生かされている意味があるというか、そういう星のもとに生まれてきたんでしょうね。しかも、それを今では前向きに捉えているというのが、口で言うのは簡単だけど、実践するのは大変だと思うので、自分の兄ながらすごいなと思いますし、僕のお兄ちゃんでよかったなと思います。