「自分の子どもの顔が見たい」かつては葛藤も

── そもそも養子縁組という選択肢は、いつ頃から池田さんのなかにあったのでしょうか。
池田さん:最初に知ったのは、通っていたクリニックに置いてあったパンフレットです。興味を持ち、シンポジウムなどにも足を運びましたが、当時は養子縁組で子どもを迎える人の話をほとんど聞いたことがなく、現実味は薄かったんです。
不妊治療をはじめて5年ほどたった頃、夫に「養子縁組ってどう思う?」と聞いてみたことがあります。しかし、夫から返ってきたのは「いや、今はまだ考えられない」という答えでした。私の中にも迷いや葛藤があったのですが、話し合いに発展することはありませんでした。夫には「自分たちの子どもを妊娠できる可能性に賭けたい」という思いもあったでしょうし、「血の繋がらない子どもを育てる自信がない」とも。一般的な反応だと思います。私も同じ不安があったので。
── 池田さんご自身は、血の繋がりに対してどんな思いを持っていましたか。
池田さん:やはり、自分の子どもの顔が見たいという気持ちは強かったですね。夫と半分ずつ遺伝子を受け継いだ子がどんな顔をしているのか。友人たちの子どもが親にそっくりで愛らしい姿を見るたびに、「自分もその喜びを味わいたいな」と。だから、別の道へ踏み出す勇気はなかなか持てず、ずいぶん葛藤していました。
── 36歳で死産を経験された後、乳児院(保護者の養育を受けられない乳幼児を預かり、親の代わりとなって育てる施設)などのボランティアを始められています。子どもを見ることさえつらい時期に、あえて関わりを持とうとされたのはなぜだったのでしょう。
池田さん:当時の日本には約4万5千人の子どもが親と離れて暮らし、大半が施設で育っていました。乳児院とはどんな場所なのか、ずっと気になっていました。抱っこしてくれる人やミルクをあげる人が足りない現状を知って、少しでもその子たちの隣にいられるなら、という思いもありました。
仕事のペースが変わって少し時間ができたときに、ミルクボランティアの募集を見つけて、自分の目で確かめたいと思ったんです。赤ちゃんを見るのがつらいという気持ちよりも、何かできることはないか、実際に知りたい、関わってみたいという気持ちのほうが強かった。
私たち夫婦はあれほど望んでも叶わなかったいっぽうで、さまざまな事情の中で生まれてくる子がいる。その現実に複雑な思いがなかったと言えば嘘になります。ただ、その気持ち以上に、誰かが絶えず世話をしなければ生きられない赤ちゃんたちが、ここにいる。その事実がずしんと胸に響きました。
職員さんたちは、その時々でできる限りのことをされています。それでも、赤ちゃんたちのお腹がすく時間は重なりますし、全員を抱いてミルクをあげられるだけの人手はありません。哺乳瓶を固定できる枕のようなものに角度をつけて、赤ちゃんがひとりで飲めるようにしている場面もありました。生きるためのお世話は懸命に続けられている。でも、家庭で一対一で積み重なっていく時間とは、やはり違うのだと痛感しました。