「帰りの新幹線で、いつか日本で起業したいという思いが『福島で』に変わりました」という峯岸ちひろさん。1991年生まれで震災当時は大学入学前。「何も行動に移せなかった」という彼女が、震災から10年経った福島を訪れたことで、人生を大きく変える決断をすることになった訳とは──。
芸能界を目指し卒業間近で早大を退学
── 早稲田大学在学中から、芸能界を目指していたと伺いました。
峯岸さん:アイドルに憧れて学生時代はアルバイト感覚でレースクイーンやモデルとして撮影会などにも参加していました。

親や周囲にも打ち明けられず大学4年生になり、就活もしました。内定をいただいて内定式にも参加したのですが、芸能界に進みたいとの思いが強くなり、内定を辞退してしまったんです。卒業まであと2か月に迫ったころに大学も退学し、そこから2年ほどグラビアの撮影や舞台などの活動に専念しました。
── そこからまた、心境の変化があったそうですね。
峯岸さん:はい。芸能界で活動をしていくうちに「きっとうまくやっていける」という感覚と、「自分には素質がない」という矛盾した感情が生まれていきました。目指している人が多い世界で、ほかの人にはないもので勝負しなくてはいけないという焦りもあったと思います。自分なりにどうしたらいいか調べて、今後の経済の伸びなどを踏まえたうえで市場が大きい中華圏で活動してみることにしました。修学旅行をきっかけに好きになり、現地に知人もいる台湾で仕事をして、そこで売れたら中国にも道が開けると思ったんです。
語学学校で中国語を学びながら芸能ビザを取得し、現地の事務所に所属しました。日系企業関連の生命保険会社のCMをいただけたのが最初のお仕事で、その後はテレビ出演をはじめ、日本語の指導や現地の飲食店の経営など、芸能の仕事以外のことにも幅広く挑戦しました。とにかくなんでも挑戦してみるという時期だったと思います。

30歳の節目で芸能人生に区切りを
── 5年間、台湾で活動をしたあとで帰国されました。
峯岸さん:日本から離れて生活をし、芸能以外の仕事にも携わっていくうちに、自分が商品として表に出ていくことよりも、日本のいいものや文化を海外に広げることに興味を持ち始めました。いつかはそういったことで起業できたらと、30歳の節目で自分の芸能人生に区切りをつけようと思いました。帰国後は大学の復学制度を利用して、退学してしまった大学で日本と台湾の合弁会社について学び、きちんと卒業しようと思いました。
── 芸能界から方向転換をされたんですね。その後、福島を訪れるきっかけがあったと伺いました。
峯岸さん:30歳で再び学生生活を送っていたころ、知人から日本で活動する台湾人による「東京台湾の会」の理事になりませんかとお声がけをいただきました。「福島前進団」という台湾人による福島を支援する事業の一環で、東日本大震災の被害を受けた沿岸部の視察に通訳としての立場で訪れることになりました。
── 2011年の東日本大震災の際はどちらにいましたか。
峯岸さん:大学入学前の春休みの時期で、地元の神奈川県で倉庫作業のアルバイトをしていました。ものすごく揺れて、積んであった段ボールが倒れてきました。外に駐車されていた車が動き出して驚いたのを覚えています。携帯がなかなか繋がらず、公衆電話にも長い行列ができていました。夜中の1時ころに父とようやく会うことができ、自宅まで一緒に歩いて帰ったのですが、「被災地はどうなっているんだろう」という思いはあったものの、漠然とした不安を抱きながら大学生活が始まったという感じです。
台湾で生活していたときに、原発事故の放射線被害による影響で、食品などの輸入規制をしていることや風評被害があることは見聞きしていていましたが、実際に何か行動に移したことはありませんでした。2021年の秋に福島の視察の話をいただいたのが私の初めての福島訪問でした。
── 実際に福島を訪れてみていかがでしたか。
峯岸さん:目に入ってくる光景が想像を超えていて、衝撃を受けました。津波や原発事故の影響があった沿岸部を中心に回ったのですが、車で移動している際も放射線の汚染土壌を入れておく黒いフレコンバッグがずらりと並べられているのが目に入りました。あちこちで復興作業中の重機が稼働していて、震災前は普通に住民が生活していた場所が避難区域に指定され、立入を禁止する規制線が張られていて。私の生活はすっかり日常に戻っていたのですが、震災から10年以上も経つのに、同じ日本なのに帰れない場所があるということもショックでした。「自分はなぜ今まで何もしてこなかったんだろう」と反省もしました。
── 心境に変化があったんですね。
峯岸さん:帰りの新幹線のなかで、「福島のために貢献したい」と言う思いが固まりました。いつか日本で起業したいという思いが、「福島で」に変わった瞬間でした。