今だから明かせる活動休止前夜の出来事

── 一時期、休業されていた時期がありましたね。

 

玉城さん:NHKの朝ドラ『ちゅらさん』の主題歌になった『Best Friend』が売れていたとき、喉を痛めて声が出なくなってしまったんです。全国もいろいろ回って、テレビにもたくさん出させてもらっていたときでした。あるコンサートで歌えなくなり、中断してしまったことがあって、そのあとからだんだん歌うのが怖くなっていきました。注射を打って、薬を飲んで、その日1日を何とか乗りきるという日々で、コンサートにも吸入器を持ち歩いていくことが半年ぐらい続きました。

 

玉城千春さん
ソロアーティストとしても活躍する玉城千春さん

── 待っている方がたくさんいるのに歌えない状況…つらいですね。

 

玉城さん:夢を追いかけてずっと来て、やっとデビューして歌える立場になって。昔の自分からしたら羨ましい環境でしかないのに、まさか歌えなくなる日が来るなんて思ってもいませんでした。「もう歌えないかもしれない」という不安で、精神的にもつらい時期でした。それで、2001年のNHK紅白歌合戦の後から、半年間お休みさせてもらうことにしたんです。

 

── そんな背景があったとはまったく知りませんでした。

 

玉城さん:今だから話せるのですが、紅白の前にさらに追い討ちをかけられるような事件があったんです。前日の夜、家に泥棒が入ったんですよ。もうこの日を乗りきれば、次の日からお休みというときでした。「明日は紅白だから早く眠らなきゃ」と思って、翌朝持って行くカバンも枕元に置き、万全の体制で寝たはずなのですが、あまりの寒さで夜中の2時ころに目が覚めたんです。

 

「いやいや、紅白だから寝なきゃ」と頑張って眠ろうとするのですが、部屋の寒さがおかしいなと。起きて別の部屋に行ってみたら、窓ガラスが割られていました。家に泥棒が入ったあとで、通帳などもなくなり、枕元に置いたカバンも取られていました。よくよく思い返してみたら、寝ているときにすーっと顔に布団を被せられたような記憶があるんです。あのとき目を覚まさなくて本当によかったです。

 

── 怖くて鳥肌が立ちました。

 

玉城さん:怖いですよね。そこから警察を呼んで、親に連絡をし、割れたガラスを片付けて。警察の方が帰るときに、「今日の紅白、頑張ってくださいね」と声をかけてくださいました。会場についても気持ちが落ち着かないまま本番を迎えて。紅白の生放送が終わったときには涙が止まりませんでした。マネージャーが来て抱きかかえてくれたのですが、無事に終わってほっとしたのを覚えています。それから半年間、お休みをいただきました。

 

── 休んでいる間はどんなことをされていたんですか。

 

玉城さん:上海に1か月間、中国語の勉強をするために留学しました。中学3年生で作った『未来へ』という曲を、高校3年生のときにアジア各国の学生と交流する事業に参加した際に披露したことがあったんです。まだデビュー前の、CDにもなっていないときだったのですが、中国の方から「あなた、歌が上手いね。歌が上手い人は中国語も上手いんだよ」と言われたことをずっと覚えていて。それで図に乗って、長崎の短大で中国語を勉強していていました。そのときデビューが決まり、歌うことでアジアの架け橋のような存在になれたらいいなと思っていました。歌は変わらず好きでずっとやってきましたけど、ちょっと苦しくなってきてしまった。ならば、この間にいつかしてみたかった他のことに挑戦しようと思って留学しました。

 

── プロの歌手だということは周りに伝えたんですか。

 

玉城さん:いえ、自分が歌手だとは言いませんでした。私のことをKiroroだとわからない人たちの中で生活することが心地よかったんです。たぶんあのころ、あまりにも忙しすぎてちょっと現実から離れたかったんだと思います。日本にも、こんなに大好きな故郷の沖縄にもいたくなかった。親にも友達にもスタッフにも心配をかけてしまうし、Kiroroである自分、歌っている自分からちょっと距離を置きたくて。日本人から「Kiroroの玉城さんですか?」と聞かれることはあったのですが、「そうだよ、でも、しーっ」と言ってなるべく隠して、ほかの国の子たちと過ごしていました。

 

── 現地での生活はいかがでしたか。

 

玉城さん:あるとき、友達とレストランで食事しながら勉強していたときに、聞き覚えのある歌が流れてきました。よく聞いてみると、中国語で歌われているものの、私が作った『長い間』が流れていたんです。現地ですごくヒットしていたそうです。そのときある友達が、「これいい曲だよね。台湾の」と言うので、ついつい「違う違う、これは日本の曲で、私が作って歌ってるんだよ」と言っちゃったんです。そこからどんどん噂が広まって、みんなからサインを頼まれるようになって。通っていた外国語大学で私、講義までしたんですよ(笑)。アカペラで歌ってみんなが喜んでくれる姿を見ていたら、「もうちょっと頑張ってみようかな」という気持ちが湧いてきました。歌手としてまたみんなに歌を届けたい、と気持ちが入れ替わったんです。

 

── 現実から離れたいと思って海外に出たけれど、再び歌いたいと思う原動力になったんですね。

 

玉城さん:やっぱり歌が私を助けてくれたと思いました。歌以外に好きだったことに気持ちを向けて頑張ったら、そのことに救われてまた歌に向き合えました。何かに挑戦しようと思っているときに、たとえできないことがあったとしても、やめなくていいと思うんです。小さいころに「夢破れた」と思っていたことでも、ずっと好きで続けていたから今に繋がっています。仕事にすることがすべてではないと思いますし、死ぬまで夢を見たっていいですよね。好きなことをし続ける人生は、自分自身のためになるということを、身をもって実感した経験でした。

 

PROFILE 玉城千春さん

たましろ・ちはる。沖縄県読谷村出身。1995年Kiroroを結成。ボーカル、作詞作曲を担当。1998年1月に『長い間』でメジャーデビュー。以降『未来へ』『Best Friend』など誰もが口ずさめるヒット曲多数。2021年、10年ぶりとなるソロ活動をスタートし、『命の樹』『Hope Dream Future』『あの人の声』を配信リリース。その他、沖縄県内の小中学校で夢や命の尊さを歌と共に子どもたちに届ける特別授業や、岡本知高、島袋優(BEGIN)への楽曲提供、ビビアン・スーのオリジナル曲、日本語詞を担当するなど、作家としても活動の幅を広げている。

 

取材・文/内橋明日香 写真提供/玉城千春