初めてのひとり暮らしは「毎日ホームシックで泣いていた」
── 根性ですね。
宮島さん:次の年に再挑戦しました。何社か受験した中で九州朝日放送からお声がけをいただいたんです。九州朝日放送はテレビとラジオがある局で、「まさに私がやりたかったことができる!」と思い、とてもうれしかったです。ただ、お声がけいただいたものの、勤務地は福岡県。私は生まれも育ちも東京で、東京から出たことが一度もなく…。いきなり福岡に行くのは正直、心配でした。それで当時、お世話になっていた先輩のベテランアナウンサーに相談をしたんです。「ダメだったら1年で帰ってくればいい。あなたは局アナを一度は経験したほうがいいから、絶対に行きなさい」と背中を押してくだりました。福岡に行く決心がつきました。
── 社会人で初めてひとり暮らしをしていかがでしたか。
宮島さん:最初の2、3か月は毎日泣いてました。寂しいし、知り合いは誰もいなくて、家族が大好きな私は完全にホームシックでした。でも、しばらくして慣れてきたら、仕事がすごく楽しくなってきたんです。入社してすぐ「新入社員の宮島咲良です!ラジオが大好きで、ラジオの仕事がしたいです!」って、みずからラジオ局にあいさつに行ったんですよ。当時、ラジオに出たいって自分から言いに行く女性アナウンサーは珍しかったみたいで。おかげで1年目から念願だったラジオのお仕事をさせてもらえました。職場の方もみんな優しくて、本当に恵まれた環境でしたね。
── 入社して3年目で退職をされたときは、どのような心境だったのでしょうか。
宮島さん:仕事は楽しくて、職場の方たちにもよくしてもらってました。でも、3年目で「このまま会社員でいたら、私は新しいことに挑戦しなくなる」と感じたんです。局員という立場なので当然、局が用意した仕事の中で成果を出すことが求められます。仕事にやりがいは感じていたものの、局以外の仕事ができないという制約があります。私は特撮が大好きだったり、とにかく好きなことがたくさんあったので、ほかにもいろんなジャンルに関わりたいという気持ちが強くなりました。
── 興味の幅がどんどん広がっていったんですね。
宮島さん:局アナで安定している状況に置かれ、向上心がだんだん薄れてきている感覚があったんです。それで辞めることを決断。自分の好きなことに思いきり挑戦するために、会社員を辞めてフリーランスの道を選びました。
── 辞めるときに思い出に残っているエピソードはありますか?
宮島さん:当時、アナウンス部の尊敬する大先輩が私が退職する際に書いてくださった寄せ書きの中で、「宮島は何があってもしゃべりを止めないでください」と書いてくださいました。ちゃんと見ていてくださったんだ。そしてこの仕事を私の天職だと思ってくださっていたんだ、ととてもうれしかったです。その言葉があるから、今もずっとしゃべり続けています。私にとって大きな心の支えになっています。
PROFILE 宮島咲良さん
みやじま・さくら。タレント・フリーアナウンサー。東京都出身。ワタナベエンターテインメント所属。大学卒業後の2007年、アナウンサーとして九州朝日放送に入社。2010年に同社を退社し、アナウンサーの枠を超えて幅広く活躍。
取材・文/大夏えい 写真提供/ワタナベエンターテイメント