実はチームには引退を伝えていた
── 復帰まではどのような経緯だったのでしょうか。
栗原さん:2週間は絶対安静でした。その後、3か月間は点滴から薬に切り替えて、少しずつですが散歩程度、動けるように。経過がよくなってからはチームが練習している体育館に行くようになっていました。実はそのとき、引退しようと考えていて。チームにも「引退します」と伝えていたんです。でもありがたいことに、「週に1回でもいいから体育館においで」とチームが引き止めてくれて。毎週水曜日あたりに体育館に行って、チームメイトと会ったり、重りのついてないシャフトをもって少しずつ、軽く体を動かし始めていました。そんな生活を1か月くらい続けていたんですが、思ったよりも経過がよく、いつの間にか練習復帰もできて。年明けの2017年1月の試合には帯同できるようになったんです。
── 家族はもちろん、周囲のサポートを感じたのではないでしょうか。
栗原さん:病気で試合に出られないなか、限りのあるベテランという枠を、私がひとつ埋めていることに対して申し訳なさを感じていました。だから「解雇してください。給料泥棒はできないので」とお伝えしたんですが、それでも「来年頑張ってくれればいいから」と励ましてくれて。私がチームにいることの意味を見出してくれていたんだと感じましたし、本当に恵まれた環境・人・そしてバレーボールに守られていたんだなと感じましたね。
現役生活だけでなく、命も急に終わりが来るから
── 大病を患ってご自身の価値観に変化はありましたか。
栗原さん:現役生活は有限で「いつか終わりが来る。だから後悔しないように」といつも考えていましたが、命も急に終わりが来ることがあるかもしれないことを感じました。それ以降は、今まで以上に1日1日を大切に過ごそうと思うようになりましたね。感謝の気持ちや伝えたいことは先送りせず、その瞬間伝えないと後悔するかもしれない、と。
── 実際に感謝の言葉や気持ちを伝えたり言葉にするようになりましたか。
栗原さん:脳血栓になったとき、周りは私よりも若い選手ばかりだったんですが、リハビリで週に1度体育館に行くと、私が辞めようとしていることを察知してか「メグさん、次はいつ来るんですか?」「遠征にはいつから一緒に行けるんですか?」というように、たわいもない会話のなかで「一緒にバレーボールがしたい」という気持ちをアピールしてきてくれたんです。それまで私はずっと強い先輩でいなければいけない、弱みを見せてはいけないと思っていたんですが、後輩たちにもっと頼っていいんだなと思えるようになりましたし、つらいときは「つらい」と言ってもいいのかなと思えるようになりましたね。
── 現役時代は栗原さんにとってどんな時間だったのでしょうか。
栗原さん:引退してもうすぐ6年目になります。現役中は苦しいことの方が多かったですし、制限をかけて自分を追い込んでいました。ただ、あの時代を経験しなければ気づけなかったことがたくさんありますし、仕事も交友関係も、今の環境はすべてバレーボールが作ってくれたもの。そういう意味では本当にありがとうという気持ちでいっぱいですね。
PROFILE 栗原 恵さん
くりはら・めぐみ。1984年広島県生まれ。小学4年からバレーボールを始め、中学、高校と強豪校でプレー。2001年に全日本女子に初選出され、翌年に代表デビュー。エースとして活躍し、04年アテネ、08年北京と2度のオリンピックにも出場した。現役引退後はコメンテーターやスポーツキャスターとして活躍し、後進の育成などにも力を入れている。
取材・文/石井宏美 写真提供/栗原恵