「プリンセス・メグ」の愛称で親しまれ、女子バレーボールの人気を牽引した栗原恵さん。10代から日本代表として輝かしいキャリアを築いてきた一方、本人は「もう2度と戻れない」と当時を振り返ります。(全3回中の1回)
輝かしいキャリアも「いつももがいていた」
── オリンピックに2度出場するなど、バレーボール選手としてのキャリアが輝かしいですが、10代や20代のころはどのようにバレーと向き合われていましたか。
栗原さん:私は中学2年生のときに地元・広島を離れ、単身で兵庫県の強豪校にバレーボール留学をしました。転校してからはとにかく周りについていくのが必死で、「早く上手くなって、このチームに追いつかなきゃ」という追われる気持ちが常に大きく、なかなか楽しいとは感じられていなかったですね。だから10代のころはつらかった。20代もほぼそんな感じだったかもしれないです。日本代表でも周りにすごい選手がたくさんいたので、そこでどうやって自分の居場所や存在意義を見つけるかといつも考えていましたし、苦しんでいたような気がします。
── 自分の居場所や存在意義を見つけられたのはいつごろだったのでしょうか。
栗原さん:若手のころは技術も未熟で、どうすれば先輩に早く追いついてチームメイトの一員と認めてもらえるかと悩んでいましたし、中堅になると、シーズン後に契約が満了になる先輩たちの姿を目にしていたので、自分にもいつかそんな日が来るのではという危機感がありました。だから「今、頑張らないと」といつも必死で。ベテランになると、試合にフルで出られることが少なくなっていたので、『自分がこのチームにいる存在意義はなんなんだろう』と考えたり、いただいている報酬に対しての対価やチームに対して自分がどれだけ貢献ができるんだろうと悩んだり。どの時代も自分の居場所を常に探し続けていましたし、不安でした。そうやって苦しみながらもプレーしていた現役生活でしたね。
── バレーボールを始めた原点には「楽しさ」があったと思うのですが、それは現役でプレーしていたころには感じられていましたか。
栗原さん:学生時代は日本一になったり目標を達成しても、「よかった」と一瞬は思うけれど、翌日からは「昨日のことは過去だから」と次の目標に向けた厳しい練習がスタート。試合に勝った瞬間ぐらいでしたね、「やっていてよかったな」と思ったのは。当時はその一瞬の喜びのために頑張っているという感じでした。