バラエティ番組『恋のから騒ぎ』に出演し、当時就いていた職業から「左官屋」の愛称で人気を博した西方凌さん。「翌朝の現場に差し支えるので、番組を見たことがなかった」という西方さんが、オーディションに応募するきっかけとなったのは「父が急死してから、初めて母が発したポジティブな言葉だった」と言います。(全4回中の1回)
収録後は「みんなでオンエアを見て反省会を」
── 『恋のから騒ぎ』に出演していた当時の思い出を聞かせてください。
西方さん:自分たちで生き残っていかなければいけない番組だったので、レギュラーメンバーがだんだん決まっていくにつれて「協力し合ってみんな抜けないようにしようね」と団結していました。のちに、ほかの期の子と仲良くなって当時について聞くと、収録後はみんなで遊びに行っていたという話が出たりもしたのですが、私たちの期は、みんなでホテルの部屋に集まってオンエアを見て反省会をするのが毎回のルーティンで(笑)。楽しかった反面、素人なりに大変だったし必死だったという記憶があります。
── 特に大変だった出来事はありますか?
西方さん:当時は地元・愛知県で左官業していたのですが、「から騒ぎ」の視聴率が高かったので、声をかけられる機会がわりと多かったんです。あるとき、夏休みの高校が現場だったことがあって、現場に入るとたまたま登校日だった高校生たちに囲まれてしまって。あちこちからカメラを向けられて、校舎の窓からたくさんのフラッシュを浴びて仕事にならなくて、親方に叱られたときは大変でした。あとは、隔週で行われる収録に参加するときは仕事を休ませてもらっていたので、愛知県に戻ってきた翌日早朝の現場はしんどかったり、給料は全部出演時の洋服代に持って行かれちゃったり。楽しいけれど、お金はまったく貯まらなかったですね(笑)。
父の急死に落ち込む母が「これ応募してみたら?」
── オーディションに応募したきっかけも教えてください。
西方さん:「から騒ぎ」はもちろん知っていたのですが、次の日の現場に差し支えないように午後9時には寝るような生活をしていたので、番組を見たことはなかったんです。でも、私が左官屋になりたてだった20歳のときに、父がくも膜下出血で急死してしまって。落ち込んでいた母に寄り添ってあげたくて夜遅くまで起きていたら、「から騒ぎ」を見ていた母が「これ、応募してみたら?」と言ったんです。父が亡くなってから初めて聞いた母から出るポジティブな言葉だったので、受かるとは全然思っていなかったのですが、家族の気が紛れるといいなと思って応募することにしました。
提出する履歴書を書いていたら、途中で眠くなってうつらうつらしちゃったんです。すると、窓を閉めきっているのに部屋のタペストリーがすごく揺れて。だけど不思議と怖くなくて、「これはお父さんが『書け』って言ってる!今、書かないとやばい!」という気持ちになって、急いで書きあげて締切ギリギリに投函したんですね。その後、忘れたころに「書類が通りました。オーディションに来てください」と連絡が来たものの、仕事と重なっていたので行く気持ちと行かない気持ち半々でいたら、母が「絶対に行ってほしい!」と(笑)。その願いを受けて1次選考に行くことを決めて、何度か選考を経たのちの最終オーディションに明石家さんまさんがいらっしゃったという流れです。
── 番組出演が決まったことは、お母さまにとって明るいニュースになったんですね。
西方さん:なりました、なりました。もう書類が受かった段階から、キャーキャー言って喜んでいました(笑)。父のくも膜下出血は本当に突然で、初孫が産まれる3日前だったんです。妊娠していた姉の出産予定日を過ぎていて、心配した父が早く帰宅していたので倒れたのはたまたま家だったのですが、私が現場から駆けつけたときにはすでに意識不明の状態で。最後にどんな会話を交わしたかさえ覚えていないくらい、突然のことでした。昔ながらの大黒柱という感じの父でしたし、妹はまだ学生だったので、母は「先が見えない」とすごく落ち込んでいて。父と母に導かれるかのように、オーディションまで進んでいったように思います。