「ラッキーパンチだった」と振り返る20代の絶頂期を経て、仕事が低迷した森脇健児さん。向かい風が厳しい状況のなかで、再浮上のきっかけをつかみます。今でもひとつの柱だと語る森脇さん「走る」仕事の原点は、『オールスター感謝祭』の名物企画「赤坂5丁目ミニマラソン」にありました。(全5回中の4回)

仕事に上も下もない「祭りや結婚式の司会も経験」

森脇健児さん
50代とは思えない体で今年も赤坂を走った森脇さん

── 超売れっ子だった20代を経て、30代は低迷期を経験。関西に戻られてからは、どんなふうに過ごされていたのでしょうか?

 

森脇さん:ゼロからやり直そうと関西に戻ったものの、テレビの仕事があるわけではありません。「これはヤバいぞ、シャレにならん」とあせりましたね。子どもが2人いて、しかも私立の学校に行くというものだから、なんとか収入を得る必要がある。グチや泣き言を言っているヒマがあったら、なんでもいいから仕事をしないと、と思っていました。でも、そういうギリギリのときに限って、結婚式やゴルフコンペ、村祭りの司会など、いろんな人から声をかけていただき、なんとか路頭に迷わずに済みましたね。

 

── 芸能界の第一線でスポットライトを浴びていた人が、急にゴルフコンペや村のお祭りの司会をするというのは、抵抗がなかったですか?

 

森脇さん:いや、それはまったくないですね。イベントの司会はタレントだから呼んでもらえるわけですし、芸能の仕事であることに変わりはありません。それに、どんな仕事であっても、必ず「おもしろさ」ってあるんです。村祭りでは、お寺のお堂で司会をしたのですが、小さな子どもからおじいちゃんおばあちゃんもいるから、幅広い年代にウケる話をしなくてはいけません。芸人として鍛えられますよね。いろんな人とふれ合えるのもすごくおもしろい。

 

森脇健児さん

そもそも人前に出てみんなを楽しませるこの仕事が大好きなので、舞台の大きさでプレッシャーは変われども、自分のなかで格づけをして「この規模ならこの程度でいいだろう」という考え方はしないですね。それに、手を抜く姿って、絶対にお客さんに伝わりますし、呼んでくれた人にも失礼ですからね。ただ、どんな仕事でも引き受けるぼくが、唯一やらないと決めていることがありました。

副業はしない「過去の人扱い」でも芸能界で勝負

── 唯一やらないこととは、なんでしょう?

 

森脇さん:芸能の仕事に関係のない「副業」です。仕事がないときに限って、わけのわからない儲け話を持ちかけてくる人がたくさん寄ってくるんですよ。「焼肉屋さんの名前貸しをやってほしい」「月20万円でワインバーをプロデュースしませんか?たまにくるだけでいいので」とか。そういう話にはいっさい耳を貸しませんでしたね。

 

── もしも自分なら…と考えると、心がグラついてしまいそうです。「二足の草鞋」という選択肢もなく?

 

森脇さん:僕が勝負をする場所はそこじゃないと思っていましたから。それに、二足の草鞋ができるほど器用なタイプではないですし、余計なことをしたら、芸能の神様に見放されてしまいそうで。古い人間かもしれませんが、やっぱり仕事というのは、頭と体をめいっぱい使って、汗をかく。その対価でお金をもらえるというのが、ぼくの考えですね。

 

── 再浮上のきっかけとなったのが、2003年、TBSの『オールスター感謝祭』の人気コーナー「赤坂5丁目ミニマラソン」での初優勝でした。

 

森脇さん:売れなくなってから『いきなり!黄金伝説。』の1万円生活や『マネーの虎』にも出たけれど、向かい風が厳しくて、世間がぼくを求めていないことを痛感していました。だから『オールスター感謝祭』のマラソンで優勝したときも、誰にも応援されず、「空気読め」と言われ、過去の人扱い。でも、司会の島田紳助さんと島崎和歌子ちゃんだけは喜んでくれて、うれしかったですね。見てくれている人はいるんだなと。