若いころは怖いもの知らずで、前のめりになっていく勢いが大事に見えますが、それだけでは成功をつかめません。20代、野心を胸に西でも東でも人気芸人にのしあがった森脇健児さんが、「俺が俺が」を捨ててつかんだ成功体験を伺いました。(全5回中の2回)

芸人は爪痕を残してナンボだと思っていた

少年時代の森脇健児さん
控えめな少年時代の森脇さん

── 小学生のときには「お笑い芸人になる」と決めていたそうですね。

 

森脇さん:子どものころからラジオが大好きで、上岡龍太郎さんや西川のりおさん、オール阪神・巨人さんなど、お笑い芸人さんたちの番組を聞くのが楽しみでした。彼らに憧れ「自分も絶対に芸人になる」と決意。中学校の学園祭ではひとり漫談をしたり、高校(京都・洛南高校)の弁論大会では、当時流行っていた学園ドラマ『高校聖夫婦』と自分たちの学校生活を比較して、校則の厳しさをコキ下ろしたら大ウケ。最後に「でも、ここで過ごす3年間を絶対に意義あるものにして、一生の宝にしようぜ!」と締めくくったら、笑いと拍手、足を踏み鳴らす音で地鳴りがするほど盛り上がりました。人生でいまだにあれ以上ウケたことはないですね(笑)。一学年下に俳優の佐々木蔵之介くんがいるのですが、彼もあの場で聞いていたと思います。

 

小学生のころの森脇健児さん
運動神経抜群!陸上では地元で知られる存在だった(白いハチマキが森脇さん)

お笑いと同じくらい打ち込んでいたのが陸上でした。高校の陸上部は名門で、全国インターハイにも出場しました。中学時代から陸上部でインターハイを目指してきたのでうれしかったですね。ただ、その目的は、じつは別のところにあったのですが…。

 

──別の目的というのは…?

 

森脇さん:芸人の経歴として「インターハイ出場」という看板が欲しかったんです。陸上経験者はいても、インターハイ出場経験のある芸人ってそうはいないだろうから、武器になると思って。

 

── ある意味、不純な動機のような(笑)。

 

森脇さん:それだけ芸人になりたかったんです。自分なりの作戦でしたね。高校2年生のときに松竹芸能のオーディションに合格し、事務所に所属。そこから僕の芸人人生が始まりました。

 

── 大阪の人気番組で知名度を上げた後、23歳で東京に進出。その後は、売れっ子芸人としてテレビで引っ張りだこの存在に。大阪と東京では、笑いのスタイルや進め方などが違うとよくいわれますが、苦労しませんでしたか?

 

森脇さん:東京に出てきてすぐ、『EXテレビ』の金曜レギュラーとして、三宅裕司さんと一緒に番組をやらせていただいたのですが、そこで東京での仕事の流儀を学ばせていただきました。大阪では、台本はあるけれどアドリブで盛り上げていくことが多かったんです。爪痕を残してナンボだから、みんな「前に前に」と出ていく。ぼく自身「芸人はアドリブで勝負や!」と思っていたので、「大阪の芸人として笑いでは負けたくない」と気合い十分でした。

 

でも、三宅さんは台本にすごく忠実で作家と一緒に打合せを重ね、ていねいに番組を作り上げて笑いを生み出していくんです。すごくスマートでしたね。その様子を目の当たりにして「こういう笑いのやり方があるんや、スゴイな」と。番組の制作費も関西とケタが違う。いろいろな意味でカルチャーショックを受けました。