歌手のMISIAさんの母で小児科医の伊藤瑞子さん。子どもが熱を出して夫と揉めているときに「病気になってごめんなさい」と泣く3歳の娘の姿にハッとした経験があったそうです。(全4回中の1回)

「女医は税金のムダ」と言われた医学生時代

── 終戦の年にお生まれになったと伺いました。

 

伊藤さん:父が戦時中に満鉄に勤めていて、今の北朝鮮で生まれました。私は1945年4月生まれで終戦が8月なので、戦後の混乱期の中、母が生後4か月の私を抱っこして日本に帰ってきたんです。

 

伊藤瑞子さんと娘のMISIAさん
「ハイポーズ!」白衣姿の伊藤瑞子さんとお気に入りのポーズで写真に写る幼少期のMISIAさん

母は「食べ物を欲しがるような年になっていたら、お腹が空いて我慢できずに泣いてしまっていただろうけど、お水さえ飲めば母乳が少し出たから生き延びられたのよ」と言っていました。まさに戦直後の混乱をくぐりぬけてきたと思います。祖父は、ひとりっ子の私に「これからの時代は、女の子も手に職をつけて自分の力で生きていけるようにならなきゃダメだ」と口を酸っぱくして言っていました。

 

── なぜお祖父さんはそう言っていたんでしょう。

 

伊藤さん:戦後は夫を戦禍で亡くした方、今でいうシングルマザーがたくさんいて、みなさん苦労されていたからだと思います。祖父は、女性も何か手に職があれば生き抜いていけると思ったんでしょう。でも当時の私は、自立しろと言われて浮かんでくる職業は学校の先生か医者でした。あのころは、ひとクラス60人学級で先生は大変そうだなと幼心に思っていましたので、医者になろうと思って長崎大学の医学部に進学しました。

 

── 女性で医学部に入る方は今よりだいぶ少なそうです。

 

伊藤さん:当時、女子学生は全体の1割もいませんでした。大学の教授は「女性はいずれ結婚して辞めてしまったら国立大学なので税金のムダになる。成績が多少悪くても男性を入れた方がいいと思う」と公然とおっしゃっていました。頑張ってやっと入学したのに、ひどいことを言うなと思っていましたね。

働きながら年子を育て「ストレスで2回も十二指腸潰瘍に」

── 伊藤さんは結婚しても仕事を辞めなかったんですよね。

 

伊藤さん:中学卒業と同時に就職する方がたくさんいた時代に、私は奨学金をいただいて国立大学に入れたので、選ばれているぶんの社会的責任を果たそうという意識がありました。仕事を本気で辞めようというのは一度も考えたことはありません。大学在学中に、24歳で同級生の夫と結婚し、長崎大学医学部で基礎の病理学教室で助手として勤めながら、年子で2人の子どもを授かりました。MISIAの兄と姉ですね。今でいうワンオペで働きながら子育てをするのはなかなか大変でした。

 

伊藤瑞子さん
現在79歳の伊藤瑞子さん

長男と年子で長女を出産し、まるで双子のような感じで、寝る間もないくらいの忙しさでした。病理学教室は定時に帰れるのですが、解剖などが入れば当番制で夜中に呼び出しもあります。それに病理学は研究が命なんです。病理学教室の皆さんにはとても協力していただいたのですが、研究だけは自分でしなくてはなりません。子育てをしながら本を読む時間がなかなか取れず、ストレスで2回も十二指腸潰瘍になりました。

 

── 仕事と子育ての両立は、今よりさらに大変だったことと思います。

 

伊藤さん:産前産後は6週間ずつ休んで、生後43日目から無認可保育所に預けました。2人目のときは大学に保育所ができたのでそこに預けていました。でもそのころ、病児保育はありませんので、子どもが体調を崩すと大変です。

 

朝から子どもが熱を出したら、どっちが休むか夫と揉めました。佐賀に住んでいた親が2〜3時間かけて来てくれていたので、親を待つ間もほとんど私が休んでいましたが、ある日、どちらが子どもを見るかで言い争いになりました。私が「今日の実験を組み立てたのに、全部パァになっちゃう」と言っていたら、そのとき3歳だった長女が「病気になってごめんなさい」と言って泣き出したんです。ハッと我に返って「私は何をしているんだろう」と思いました。自分が鬼のような母親に思えて一緒に泣いてしまいました。

 

もう何度か講演会などでお話したこともあるのですが、このエピソードは子育てをしながら働くうえで大事な思い出となっています。長女はその後、歯学の道に進むのですが、「あのとき、人生最高のフレーズを使ってしまったかもしれない」と言っていました。