「許されないことだとはわかっていました」バレーボール選手として活躍した大友愛さん。日本女子バレー界の中心選手となるべき24歳のタイミングで現役引退を表明。長女を出産します。(全4回中の1回)
「絶対に嫌です」と断り続けていたが
── 高校生のときにはオリンピック有望選手に、プロ1年目から全日本代表に選出され、現役中は2度のオリンピック出場。バレーボール選手として輝かしいキャリアを築いてきた大友さんですが、10代のころはどんな風にバレーと向き合っていましたか。
大友さん:バレーを始めたのは中学1年生からですが、私にとってはただ楽しいから続けていただけで、プロを目指すなんて気持ちなんて当時はまったくありませんでした。
「将来は日の丸を背負って」なんて期待されることがあっても、「いやいや下手っぴな私が日の丸なんて絶対ムリです!」とずっと本気で言っていました。
でも高校の進路を決めるときになって、指導者の先生方が私の可能性を狭めないようにといろんな道を考えてくださったんですね。そのことに気づけたのは大人になってからでしたが、10代のころから素晴らしい指導者の方々と出会えたおかげで、自分はバレーの道を進めたんだなと今になって実感しています。
── 最初のオリンピック出場は2004年のアテネでしたが、エースアタッカーとして活躍し、一躍人気者に。翌年にはバレーボール選手としては初となる写真集やDVDも出版されています。当時は複雑な胸中だったそうですが…。
大友さん:写真集やDVDは「絶対に嫌です」と、ずっと断り続けていたんです。でも、当時所属していた会社の意向に押しきられてしまって。新幹線で移動している間中、隣の席のマネージャーさんに延々と説得されているうちに、もう根負けしてしまった感じでしたね。今となってはもう笑いのネタにしてもらっていいよと割りきっていますけど、私はもう2度と見るつもりはありません。
── 当時は「バレーファンでなくても大友愛は知っている」くらいに世間の人気が盛り上がっていましたね。一方で、アイドル的な注目を浴びることで息苦しさや重圧もあったのでは。
大友さん:それはすごくありました。本当は選手としてバレーだけに集中していたいのに、それができない苦しさがありました。スポーツにとってファンの存在が大事なことはわかります。でも会社の寮の前で待ち伏せするような過激なファンの人もときにはいましたし、もっとひどいこともありました。今のようにSNSがなかった時代なので、テレビで私に関する間違った報道がされても、訂正できる場はどこにもありませんでした。一度、誤ったイメージを植えつけられると、ずっと誤解されたままになってしまう。それも大きなストレスでした。
バレーが好きでバレーをやっているだけなのに、もうバレーに集中できない。もうここから逃げ出したい。そういうしんどい状況がずっと続いて、あるとき父に「苦しいからやめたい」と打ち明けたんです。
父はタクシーの運転手なのですが、タクシーの車内も私のポスターだらけにするほど、バレー選手としての私をずっと応援してくれる人でした。そんな父だったから私がやめたいと言えば悲しむことはわかっていたんです。でも、予想に反して「愛の人生だから、決めたんならそれでいいよ。お父さんはもう十分楽しませてもらったよ」という言葉が返ってきた。
父の本心としては多分もっと娘を応援していたいはずなのに、私の意見を尊重してくれた。その気持ちが嬉しかったので、逆に「じゃあもう少しだけ頑張ろう」と気持ちを切り替えられました。