最初は誰もが無名ななかで、実力をつけ、世界の耳目を集めるにはどうすればいいのか?人気テレビ番組『ジョブチューン』でおなじみ、パティシエの世界で格闘する安食雄二さんに、自身の経験を聞きました。(全3回中の3回)
ジョエル・ロブションが刻んだ金言が成長のヒントに
── 19歳で洋菓子の名店「ら・利す帆ん」に入店し、パティシエへの第一歩を踏み出した安食さん。修業時代はどんな想い出がありますか?
安食さん:店の先輩に辻口博啓さん(「モンサンクレール」シェフ)がいて、刺激し合う毎日でした。休みのたびに一緒にケーキ屋巡りをしては、「材料は何を使っているんだろう?」と話したり、実の兄弟より長く時間を共にしたと思います。コンクールの作品を作るときは、互いの手の内を見せたくないから、仕切りを立てて、手元を隠しながら作ったりしていました(笑)。店はコンクールに積極的で、応援してくれるスタンス。ぼくも19歳のときに初めて参加しています。初出場で入賞し、翌年はジュニアで優勝。そのとき辻口さんはシニアで優勝して、アベック優勝を成し遂げました。
── 以降もコンクールには積極的に参加。修業時代から数々のタイトルを手にされていますね。
安食さん:ジョエル・ロブションの書籍に、「無名のいち料理人が成功するために一番手っ取り早いのはコンクールだ」と書かれていて、その言葉がつねに頭にありました。当時は店の屋根裏部屋で寝泊まりしていて、こんな無名のいちパティシエが成り上がるにはどうしたらいいんだ、と。同じレベルの職人なんてごまんといる、その中から一歩抜きんでるにはコンクールだろうと考えて。
「ら・利す帆ん」にいたのは3年間。「もっとこだわったものを作りたい」と、次第に思うようになって、葉山の「鴫立亭」に移りました。「鴫立亭」は当時やはり洋菓子コンクールで優勝者を輩出していた店で、「働かせてください」と飛び込みで直談判したんです。そこのチーフに「お前どこの誰?」と聞かれ、「安食です」と名乗ったら、僕のことを知っていてくれたようです。「お前ジュニアで、賞とってたよね」と言われ、それが採用の決め手になりました。
── コンクールの経験が採用につながったんですね。大型新人の入店で、さぞ注目されたのでは?
安食さん:ぼく自身は知らなかったけれど、「今度すごい子が来るぞ。あっという間に追い抜かれるから気をつけろ」と言われていたようです。やはり風当たりは強かった(笑)。そこも寮生活で、先輩たちと一緒にいるのが息苦しくて、休みのたびに辻口さんのアパートに転がり込んでいましたね。「鴫立亭」に入って3か月後にコンクールがあって、チーフに出場を勧められ、挑戦したら優勝しちゃった。それが23歳のとき。ジャパン・ケーキショーという大きなコンクールです。
ただ、ぼくにとって一番の転機になったのは、グランプリインターナショナル・マンダリンナポレオンコンクール。日本人の得意な見た目や技術ではなく、味覚で審査するコンクールで、現地に材料を持ち込み、限られた時間や条件で勝負します。日本人にはムリだと言われていたコンクールで、あのタイトルをとったことで、その後の人生が大きく変わりました。
100回の試作を経てたどりついた世界大会の優勝
── 1996年にベルギーで開催されたグランプリインターナショナル・マンダリンナポレオンコンクール(世界大会)に出場し、日本人初優勝。どんな思いで挑んだのでしょう。
安食さん:挑戦したのは、辻口さんの影響がありました。辻口さんは当時すでに世界大会にもいろいろ挑戦して実際に賞をとっていたので、「自分も」という気持ちがあって。そのためには、町のケーキ屋さんにいては難しい。何しろ朝から厨房で働いて、試作をする時間も充分にありません。定時が決まっているホテルのような労働環境と設備が必要でした。 当時、辻口さんはセンチュリーハイアットで働いていて、自分も入れないかと相談したら、空きがないと言われてしまった。その代わりと紹介状を書いてくれたのが、横浜ロイヤルパークホテルでした。ランドマークタワーの開業時です。町のケーキ店から中途採用でホテルの新規オープンに入るのはとてもまれなケースですが、いくつものコンクールで優勝してきた経歴が採用につながりました。
マンダリンナポレオンコンクールに出ると決めた時点で、「優勝できたらいいな」ではなく、もう「優勝しか」頭にありませんでした。優勝するためには何をしたらいいか、という逆算の考え方です。まず、前年、日本人で初めて2位になった横山知之さんのもとに行き、審査の様子などいろいろ情報収集させてもらいました。そこから素材選びをはじめて、味を構成していくのですが、何度も作るうちだんだんわからなくなってきてしまって。最終的に、ホテルの守衛さんや設備の方にも試食をしてもらい、意見を聞いていましたね。コンクールの準備には2年間を費やし、100回は試作をしたと思います。
優勝が決まった瞬間、涙が滝のようにドバッと溢れてきました。険しい道のりだからこそ、そこに立ったときの景色はすごいものがある。北島康介さんの「超気持ちいい!」って、オリンピックで話題になったじゃないですか。まさにあれです。本当に気持ちよかったですね(笑)。
── 日本人初優勝のタイトルをもって、辻口シェフが自由が丘にオープンした「モンサンクレール」のスーシェフ(副料理長)に就いています。兄弟弟子のタッグですね。
安食さん:辻口さんから「一緒にやってくれないか」と声をかけられて、「ぜひ」と即答しました。フランスで一緒に修行した場所にモンサンクレールという丘があって、店名はそこから取ったようです。 オープン2年で業績がどんどん伸びていき、厨房の組織もできてきた。ある程度、店が成功を収めたころ、ぼく自身も5社からシェフとしてオファーがあったんです。たまプラーザの「デフェール」もそのひとつ。それで店を離れようと決めました。