売れずに悩む日々も衝撃の指摘「24歳?まだ赤ちゃんだよ」
── そういった悩みを抱えつつ活動されていたのですね。演奏技術には定評がありますが、どのようにして身につけましたか?
寺田さん:デビューした当時は、週5〜6日はスタジオにこもって朝から晩までバンドで練習していました。最初は寮生活をしていたのですが、ドラムの角田は朝起きるとドラムのスティックを持って練習部屋に行って練習。そこからスタジオに行って、帰ってきてからもまた夜も練習するほど“練習の鬼”だったんですよ。
── まるでアスリートですね!
寺田さん:デビュー曲はCMのタイアップだったし、必死で練習しましたね。当時はレコードだったので、CMタイアップは表面のポップな楽曲だったけど、裏面は自分たちの好きなヘヴィメタル(笑)。音楽的に葛藤があったんじゃないかと指摘されることもありますが、自分の中では両方を持っているバンドだと思っています。ちゃんと“やりたい音楽”の主張はしていました。
── 寺田さんのなかでは、自分がやりたい活動もできていたと。
寺田さん:当時は「ハードロックは男の音楽」っていう認識で、「SHOW-YAは歌謡曲に魂を売った」とか「女にハードロックができるわけがない」って言われていました。それが悔しくて…。そういうことを言う相手にはいつか必ず勝ってやる。そんな強い思いをもっていましたね。
── それでも、デビュー後しばらくはやりたい音楽が認められなくて苦労されたのですね。
寺田さん:デビューしたらすぐ売れるだろうと考えていたので、ヒット曲が何年も出なかったのはつらかったです。“もしかしてビジュアルがよくなかったのかも”と、髪型を変えたり、いろいろ試行錯誤しました。でも、これだというものが見つからなくて。
自分たちの方向性がわからなくなっていた24歳の頃に、アメリカでレコーディングする機会があったんです。海外のスタッフに「髪型を変えたり、有名な人に歌詞を書いてもらっても売れない。どうすればいいんだろう」って話したら、「君はまだ24歳だろ。アメリカで30歳のミュージシャンはまだ赤ちゃんだよ」って言われて。「30歳になるまでにいろんな経験をして、30歳で歌ったものが初めて歌として表現できる。まだあと6年もあるじゃないか」と励まされたんです。そこから精神的にふっきれました。自分たちに与えられた仕事一つひとつに真正面からぶつかって、そこから得るものは何だろうって考え始めるようになりました。
自分をさらけ出した魂の一曲『限界LOVERS』が大ヒット
── それが『限界LOVERS』(1989年)のヒットへとつながったと。
寺田さん:そうですね。『限界LOVERS』から、自分で歌詞を書くのもやめたんですよ。日記みたいな走り書きを渡して、作詞家に書いてもらうことにしました。もう自分自身に嘘をつかなくなった。人間ってきれいごとだけではない、醜い部分もあるじゃないですか。そういう感情も全部、赤裸々に表現していこうって決心しました。
── ファッションも、胸元が見えてセクシーだけどカッコいい雰囲気でした。
寺田さん:ビジュアルも変えたかったんです。たまたま脱衣所で服を脱いでいたとき、鏡に映った自分の下着姿を見て「これだ! 」ってひらめいて(笑)。すぐに事務所に電話をして「この下着に鋲を打ってくれ」って伝えました。その頃から露出が多い衣装に変わりはじめました。「何も飾らない、心も裸同然です」っていう思いでしたね。
──『限界LOVERS』も、次にリリースされた『私は嵐』も、今でもカラオケの定番曲としても、世代を超えて支持されていますよね。
寺田さん:でも当時は絶対に売れないって言われました。歌詞の女性像が強いのもあるし、音楽的にいうと今だと当たり前のツーバス(バスドラムを2つ使用すること)で、頭を振り乱して演奏していましたから(笑)。でもバンドにとっては「この曲で売れなかったらバンドを辞める」くらいの覚悟で決めた曲でした。だからそういう勝負するエネルギーがものすごかったのかもしれませんね。
PROFILE 寺田恵子さん
てらだ・けいこ。1963年、千葉県出身。ミュージシャン、シンガーソングライター。高校在学中から音楽活動を開始。1985年、SHOW-YAのボーカリストとして『素敵にダンシング』でデビュー。1991年にSHOW-YAを脱退し、1992年に『PARADISE WIND』でソロデビュー。また再び2005年SHOW-YA再結成。現在もライブ活動を中心に活躍中。最新アルバムは2021年リリースの『SHOWDOWN』。
取材・文/池守りぜね 写真提供/寺田恵子