7歳で戦災孤児になり、その後は継母にいじめられる日々。早く家を出て自立したい。目指したのはアナウンサーでした。念願叶って入局したテレビ局でも「出る杭は打たれる」を地でいくようなつらい思いも。しかし、今井さんは打たれても出続ける姿勢をとりました。(全3回中の1回)
 

今井登茂子さん(左)
今井登茂子さん(左)

お天気番組が視聴率40%を超えた!

── 来年88歳を迎えるとは思えないほど、張りがあって響きのいい声、滑舌も滑らかで聞き取りやすい話し方に、思わず耳を奪われます。

 

今井さん:嬉しい言葉をありがとうございます(笑)。私がTBSに入社した1959年は、美智子さまがご成婚された年でした。まだ男女雇用機会均等法(1986年)がスタートする随分前の時代ですから、やることなすこと“女性初”がついて回って。当時の同期は、かなり亡くなってしまいましたね。

 

── 今井さんは、日本初のお天気番組の「初代お天気お姉さん」でいらっしゃるそうですね。視聴率40%という驚異的な記録をお持ちだとか。

 

今井さん:それまで天気予報は、番組内のコーナーのひとつに過ぎなかったのですが、お天気番組として独立させればスポンサーがつくんじゃないかと、誰かが考えたのでしょうね。毎週土曜日と日曜日の夜、数分間、単独のお天気番組がスタートしたんです。番組の構成も任されていたので、毎回何を言うか、自分で考えなくてはいけません。ちょうどその前の時間帯に、女優の野際陽子さんが出演していた『キーハンター』という人気ドラマが放送されていたのですが、番組が終わって、私が出た途端、すぐにチャンネルを変えられたら悔しいじゃないですか(笑)。ですから、何をしゃべれば視聴者を引きつけられるかと、必死に頭を悩ませていましたね。

 

入社直後に当時の都知事だった美濃部氏へのインタビューを行った今井登茂子さん
入社直後に当時の都知事だった美濃部氏へのインタビューを行った

── 今井さんのアドリブが大人気だったと聞いています。

 

今井さん:視聴者の心をグッとつかむには、冒頭の10秒、長くても30秒くらいの間に、見ている人が共感できるような話題をいかに提供できるかがカギだと考えたんです。たとえば、桜が咲いた日は、実際に桜の枝を手に持ちながら、「さあ皆さん!桜が咲きましたよ」と呼びかけたり、「今日は、東京にツバメが飛びました」と報告したり。いろんなことをやりましたね。今でこそ、インターネットを開けば、あらゆる情報をすぐ知ることができますが、当時はそんなものはありません。自分の足を使って探さないといけないわけです。毎日、“なにかネタが転がってないかしら”と、辺りをキョロキョロと見渡しながら歩くものだから、ドブに落っこちたこともありました(笑)。

 

── それだけ必死でいらしたのですね(笑)。

 

今井さん:ただ、どこをどう探しても、なんにもない日があるものです。そんなときは、国会図書館に通って本を読み漁りました。“今日はエジソンが生まれた日”など、その日に関する話題を仕入れて、番組の冒頭で話すことも。そうしたアドリブが評判になり、視聴率40%につながったようです。

 

── 当時は気象衛星などないですよね。どうやって天気を予測していたのですか?

 

今井さん:私にもよくわからないのですが、気象協会の人たちが各地のデータを集め、予報を立てて原稿を作り、それを私が番組内で読みあげていました。気象協会のなかの4畳半ぐらいの細長い部屋をスタジオ代わりにして、毎回、オンエアしていましたね。