営業マンとして活躍しながら、家族の生活を守ってきた丹野智文さんが39歳で若年性アルツハイマー型認知症と診断されてから11年。自身の経験や多くの当事者の方たちとの出会いを通して、「家族は一番大切だからこそ、他に頼れる人をつくって」と言いきります。(全3回中の3回)

 「心配はするけど、信用してあげる」

若年性認知症を公表する丹野智文さん
丹野さんは2020年の東京オリンピックで聖火ランナーに立候補。みごと宮城県の担当区間を走り抜けた

── 丹野さんのお話をお聞きするまで、自分が認知症のことをまったくわかっていなかったと思い知りました。実際に家族や親しい人が認知症になったとき、どうすればいいのかわからず、悩んでしまいそうです。

 

丹野さん:僕の家族や会社の人たちもそうでした。最初はみんな、僕に対して腫れ物に触るような態度で。認知症と診断された瞬間からまわりがすべて変わってしまったと思いました。僕自身は何も変わっていないのに。そんな僕の葛藤も理解されないと悩む時期がしばらく続きました。

 

僕の家族も、心配が先に立ちすぎて、いろいろ先回りしてやろうとしてくれていました。また、進行を遅らせたい気持ちから、認知症にいいと言われる食べ物や脳トレなど勧めてくれました。でも、僕はそれが嫌で…。その後、自分なりに自分ができることをやろうともがくなかで、少しずつ家族や周りの人とお互いを理解し合えていった気がします。

 

── どんなことがあったんでしょう。

 

丹野さん:ある日、道に迷って、帰宅が遅くなったことがあったんです。でもそのとき妻は「おかえり。遅かったね」とあっさり出迎えてくれて。「実は道に迷ってたんだ」と報告したのですが、それにも「そう」と言うだけ。そのことに僕は、すごくびっくりしたんです。だって、そんなときはたいてい家族から「もうひとりで出歩かないで」と言われることが多いから。「どうして僕はこんなに自由なの?」と聞いたら、妻は「心配はするけど、信用してあげる」って言ってくれたんです。

 

家族や親しい人たちは、日々心配することばかりで、失敗があると、どうしても当事者の人への信用もなくしてしまいがちです。だから、本人を管理・監視しようとする。でも、妻の言葉で「僕は信用してもらえるんだ」って思えたことは、すごく大きな力になりました。だから今、こんなふうに頑張っていられるんだと思います。

「家族は一番大切」だからこそ当事者は不安を言えない

── 信用してもらえるのは、家族からの何よりの愛情で、自信も元気もみなぎると思います。ただ、ご家族は当たり前にできていた頃を知っているぶん、「心配するけど信用する」と言えるまでなかなか難しい道のりなのかなとも思います。

 

丹野さん:だから、家族だけで支えようとするのはやめたほうがいいと思います。僕も、認知症になった人たちも、家族が一番大切なんです。大切な人たちには、心配ごとや不安なことなど、本音が言えません。

 

若年性認知症を公表した丹野智文さん
今も勤める自動車販売会社でデスクワークをしていた当時の丹野さん。初期症状で忘れ物が増えていた頃は、ノートに細かく仕事内容をメモするなど(写真右)工夫を重ねながら業務にあたっていた

僕は、同じ認知症の仲間や支援してくれる人たちにお酒を飲みながら愚痴をこぼすように吐き出しています。「実はこの前、大きな失敗をしてさぁ」「このことで今すごく落ち込んでいて」と。そうすると気持ちがラクになるんです。

 

でも、家族だけで支えようとすればするほど、本人は何も言えなくなります。不安や本音を心の中にしまい込んで、辛い状態になってしまう。一番大切な家族には心配させたくないし、迷惑をかけたくないんです。ご本人も、もちろん家族の方も、自分の心配ごとを話せる存在をつくることが大事だと思います。

毎日が発想の転換「見つけられないから見つけてもらう」

── 認知症について、人の顔の認識がしづらくなる症状が見られる人もいると言われています。「この人はこういう顔」だとわかりにくくなるのですよね。

 

丹野さん:僕も、同僚の顔がわからなくなった時点で「おかしい」と思って病院を受診したんです。その後、大学病院で若年性アルツハイマー型認知症だと診断されました。今は、服装からどの人かを判断する場合が多いような気もします。「この人はこういう服を着ている」とか。でも、上着を脱いだり、着替えられたりすると、誰だかわからなくなります。お店で一緒に食事をした人が上着を着てお店を出た瞬間、「あれ?一緒に食事しました?」「丹野さん、隣に座ってご飯を食べていたでしょ」となるわけです。

 

── 自分の意思とは関係なく、そういうことが起こってしまうのですね。

 

丹野さん:あと、僕はスキーをよくやるのですが、認知症になった当初は、友達から誘われても、不安で断っていたんです。はぐれたときに友達を見つける自信がまったくないから。それでも「行こう」と誘ってくれた人がいて。そのときに、逆転の発想をすればいいって思いついたんです。「僕に友達を見つけることは無理だから、みんなに見つけてもらえばいいや」って。それで、パンダの帽子をかぶってスキーをしたら、みんな寄って来てくれて(笑)。全然困りませんでしたよ。

 

若年性認知症を公表した丹野智文さん
パンダの帽子をかぶってスキーをしたときの丹野さん。いい笑顔!

── そうか、見つけてもらえばいいんですね!

 

丹野さん:物忘れや人の顔がわからなくなる症状はあったとしても、発想を変えればいい方向に進めると思います。それなのに、「認知症だから危ないでしょ」と何でも止められてしまったら、みんな怒られたくなくて、何もやる気にならなくなると思うんです。

認知症だってワクワクするメールを待ってる

── 認知症になると「できなくなる」というより、「怒られたくない」から「やらなくなる」こともあるのですね。

 

丹野さん:「認知症の人はスマホを使えない」「認知症になるとメールも読めない」といわれることが多いですが、認知症だと診断されると、自分に連絡してくる人が一気に減るんです。送られてくるのは、家族や支援してくれる人からの用事の連絡がほとんど。そういうメールにワクワクするでしょうか?もし、自分の“推し”から毎日メールが来たらどうしますか?

 

── すぐに読んで返事します!(と、即答)

 

丹野さん:そうですよね!(笑)友達から「遊びに行こう」ってメールが来るのもワクワクするでしょ?そういうことだと思います。僕は、認知症の人のための相談窓口として「おれんじドア」という活動をしていますが、不安をもっている当事者とLINEでやりとりをしています。僕が「おはようございます」とメールすると、みんなすぐ既読になるし、返事もしてくれます。

子どもが自分の変化に気づいてくれる

── お子さんたちとはどんなコミュニケーションを取っていますか?

 

丹野さん:ごく普通です。ただ、ときどき、子どもの顔がわからなくなって、街中でわが子だと思って声をかけたら別の人だった、なんてこともありました。でも、僕がわからなくなっているときは、子どものほうから気づいてくれます。怒らずにきちんと自分の名前を言ってくれるから、僕も困っていないし、普通の親子の関係性と変わらないと思います。2人はもう成人して社会人だから学費の心配はなくなりましたが、まだ住宅ローンが残っているので、親の責任は果たさないと、と思っています(笑)。

 

── 丹野さんのお話を伺うと勇気が出ます。若年性認知症になったらどうしようと、不安になるような暗いイメージはまだあると思います。

 

丹野さん:全然暗くはないですけどね。僕の場合は、失敗したらそれをどうリカバリーするか、それを考えるだけです。この前、自分の服を買ったんです。でも、サイズを間違えてちょっと小さかったんですね。だから、きれいにたたみ直して、父親にプレゼントしました(笑)。そうしたら父親は喜んでくれて。「それでいいんじゃない?」と思うんです。みんな「認知症は大変」と言うばかりだけれど、ちょっとだけ考え方を変えれば、人のためにもなると思います。

 

PROFILE 丹野智文さん

1974年、宮城県生まれ。ネッツトヨタ仙台で営業マンとして活躍する中、39歳で若年性アルツハイマー型認知症と診断される。現在、講演活動、また当事者のための相談窓口「おれんじドア」の代表として活動している。著書に『丹野智文 笑顔で生きる―認知症とともに―』『認知症の私から見える社会』がある。

 

取材・文/高梨真紀 写真提供/丹野智文