父の影響で3歳から飛び込み競技を始めた馬淵優佳さん。学生時代は競技を辞めたいと父に話したこともあったそうですが、時を経て今思うことは。(全4回中の1回) 

プールではコーチ、家ではお父さんだったけれど

馬淵優佳

── 飛び込み競技の日本代表コーチを務めるお父さん・崇英さんの影響もあり、馬淵さんも3歳のときから競技を始めたそうですね。

 

馬淵さん:父親の練習場に遊びに行くような、応援に行くような感覚で始めたのが3歳のときでした。昔のことなのではっきりとは覚えてはいないんですけど、年上のお兄さんお姉さんの練習を見よう見まねで、浮き具をつけてプールに飛び込んでいたんだと思います。すごく楽しかった記憶がありますね。競泳と飛び込みを並行して習っていましたが、小学4年生のときに飛び込み一本に絞りました。

 

── 競泳ではなく飛び込み競技を選んだ理由はなんでしょうか?

 

馬淵さん:私たちの練習していたスポーツクラブでは、小学校4年生に上がるときに選手コースに入るか入らないか選択します。そこで飛び込みを選んだというか、流れで飛び込みになったという感じです。両立はできないことは分かっていたんですが、自分で選んだ記憶はやっぱりないんですよね。

 

選手コースに入って以降は、中国からいらっしゃったコーチから指導を受けていたのですが、それまで遊び半分で楽しくやっていたのが、本格的にトップを目指すための練習内容にがらりと変化。平日は学校が終わってから夜まで、土日祝日は朝から晩まで練習。唯一の休みは月曜日だけの生活を送るようになり、飛び込みが楽しいという気持ちがなくなりました。

 

── まだまだ放課後はお友だちと遊びたい年ごろだったかと思います。

 

馬淵さん:ちょうど友だちだけで近所に遊びに行けたりするような年齢で、周りの友だちは放課後に遊んだりプリクラ撮りに行ったりしていたし、いろいろな種類の習い事をやったりとかしていて羨ましかったですね。

 

── 中学3年生からはお父さんがコーチとなり、直接指導を受けるようになったそうですね。馬淵さんも難しい年ごろだったかと思いますが、関係性はいかがでしたか?

 

馬淵さん:プールでは「コーチ」、家では「お父さん」と呼んでいました。そう呼ぶことで、父もプールでのことを家庭に持ち込まないようにはしていれくれたと思うのですが、やっぱり練習でいろいろ注意されると家でも険悪な雰囲気に。そんなときは母がいつも優しく「はいはい」みたいに温かいご飯を用意して、私たちの仲を見守ってくれていましたね。

 

そのころになると、国際大会にも出場できるようになりましたが、飛び込み競技は相変わらず好きになれず練習も苦しかったんです。ただ、父がコーチという手前、辞めたいとかつらいとか、友だちにも誰にも相談できませんでした。

 

── お父さんにその気持ちを相談したことは?

 

馬淵さん:一度だけあります。ちょうど中学から高校にあがる前に初めて「辞めたい」と父に伝えました。高校の進路相談で飛び込み競技をしていた先輩たちが代々通っていた高校からスポーツ推薦をいただけるという話になったんですが、それを聞いて「このまま高校に入ったら逃げられない!」と思ったら、辞めたいという気持ちがすごく強くなり。

 

でもそれを聞いて父は「辞めてなにするんや?」とひと言。それを聞いて、もうこれは逃げられないなと悟って辞めることを諦め、次の日も何ごともなかったように練習へ行きました。

 

── 中学3年生から高校生にかけてはちょうど反抗期の時期でもあったと思いますが、自分の意見をぶつけることはしなかったのでしょうか?

 

馬淵さん:ぶつけようとすらしなかったです。聞き入れてもらえなかった時点で何を言ってももうやめられないと悟ったので。

 

ただ、進学した高校でも本当に淡々と練習をこなしつつも態度には出ていたようで、大人になったときに父から「優佳の反抗期はほんまにひどかった。話も聞いてくれへんし、反応もしてくれへんし」って言われました(笑)。

 

そんな私を心配してか、飛び込み競技の大先輩・馬淵かの子さんから同時期にお手紙をいただき、それで心が少しラクになりました。「優佳はもう頑張っているから。自分にできることだけをやればいいんだよ」と、他の方からも何通か。

 

思い返せば、周囲から「コーチの娘だ」とずっと言われてきたので、どこかで自分自身に過度なプレッシャーをかけて苦しくなっていた部分もあったのかもしれませんね。