コンテスト出場を心配する母と深夜まで話して
── 27歳のときに、ミス・ジャパンに出場されました。応募の経緯を教えてください。
土屋さん:何かを変えたい、20代が終わるまでに新しい自分を見つけたいという気持ちがあって、そのためには、まずは自分が苦手だと感じていることに向き合わなければと考えていたんです。
そんなときにSNSで見かけたのが、ミス・ジャパンの応募要項でした。これまでのミス・コンテストは、「身長制限が160センチ以上」という条件が多かったので、155センチの私は応募することさえ許されないと思っていたのですが、ミス・ジャパンはその年に創設されたもので、身長制限がなくて。応募要項にも「英語が話せない、身長が低いなど、いろいろな思いで挑戦を諦めてきたあなたでも挑戦できます」というような文言があったので、100パーセント受からないだろうと思いながらも、何事も1歩踏み出さないと始まらないなと考えて、書類を出すことにしました。
子どものころからミスコンの特集などはテレビで見ていて、コンテスタント(参加者)の皆さんがキャンプに参加して、時には涙したり仲間と何かを乗り越えたりしながらステージで自分らしさを持って輝いていくというイメージを持っていたんです。なので、ミスコンに出たいというよりも、ビューティーキャンプに参加して、自分と向き合って苦手なことにもチャレンジしたいという思いで応募しました。
── 周囲やご家族の反応はいかがでしたか?
土屋さん:書類通過が想定外だったので、東京大会やビューティーキャンプなどのステージへ進む前に、チームと家族にきちんと相談することにしました。当時はまだ富士通のチームに所属していたので、ファイナル選考の結果がどうであれ、いろいろな方面への説明や理解が必要で。私のために会社の方が動いてくれたり、会社の方々との話し合いに母も参加してくれたりして、自分が思っている以上に周囲の人を巻き込んでしまいました。
家族は、妹が芸能界で仕事をしているので、私の挑戦が不本意な形で誤解されるかもしれないということをすごく心配していました。特に母は、この挑戦が本当に今の私に必要なものなのか、必要だとしても、その先に変化するさまざまなことを本当に熟考できているのか、また妹が芸能活動をしているからこそ母自身が痛感している厳しさや難しさについても本当に心配をしていて、深夜まで話し合うこともありました。でも、このような機会が今後あるかどうかも分からないし、あのとき出ていたらどうだったんだろうという後悔をしたくないと思ったので、ステージに進むことにしました。
── そして、初代グランプリに輝きました。
土屋さん:書類が受かるとも思っていなかった私が東京大会に出られて、選考を楽しもうと思っていたら東京代表に選んでいただいて、最終的にグランプリをいただいて。もちろん選んでいただけたことは本当に嬉しいですし、今も全力で取り組んだ自分には誇りを持っています。でも、光が強ければ陰も強いように、ミス・ジャパンをいただいたことで生まれた迷いは、決して小さいものではありませんでした。
「自分に自信を持ちたい」、「人と比べずに自分らしく生きていきたい」と思って真摯に取り組んだはずの挑戦でしたが、結局は比べられる場所に…。果たして挑戦してよかったのかと考えると、今も迷いがないとは言えない。だからこそ、日々を大切にして、挑戦してよかったと心から思える過去にできるように頑張っているという感じです。
PROFILE 土屋炎伽さん
1992年8月26日生まれ、東京都出身。明治大学応援団バトン・チアリーディング部を経て、富士通入社後は「フロンティアレッツ」のチアリーダーとして活躍した。「2019ミス・ジャパン」にて初代グランプリを受賞。現在はXリーグ「ブルーサンダース」のチアリーダーをはじめ、幅広く活動している。
取材・文/長田莉沙 写真提供/土屋炎伽