匿名掲示板『2ちゃんねる』の開設者でもあり、論破王の異名を持つ西村博之(ひろゆき)さんの妻・ゆかさんがひろゆきさんに出会ったのは、20歳をすぎた頃。ギャンブル依存症の父や、金銭トラブルを起こす母との複雑な関係性に苦しんだことを著書『転んで起きて 毒親 夫婦 お金 仕事 夢 の答え』(徳間書店)で語っていますが、当時の冷静なひろゆきさんの言葉に救われ、徐々に考え方を変えられたと言います。

「身内を助けるのは当然」と思い込み苦しんだ少女時代

小学生の頃の西村ゆかさん
5歳の頃のゆかさん。美しいお母さまとの思い出の一枚

── 子どもの頃にご両親の離婚を経験され、苦労が多かったと思います。

 

ゆかさん:物心ついた頃には、周りと比べて“うちの両親は仲がよくないのかな”と気づきはじめていました。だから、“家族みんなで仲よく暮らせればいいのに、どうしてそうしないんだろう”っていう思いが強かったです。

 

中学生になる頃には、感情にまかせて私を罵倒したり、お金の無心を繰り返したりする母に嫌気がさして…。でも見捨てることはできなかった。母は祖母や伯母にも迷惑をかけていたので、親戚からの風当たりも強くて。周りの大人が信用できないという状況でした。

 

── 20歳をすぎてもその状況は変わらなかったそうですね。そんな両親へ複雑な思いを、当時おつき合いをしていたひろゆきさんは理解してくれたとか。

 

ゆかさん:家族など自分の身近な人が困っているとき、それを助けないで見過ごすなんてイヤな奴、っていうとらえ方が一般的だと思います。でもひろゆき君は、「お金を貸してくれと言われてイヤだと感じるなら、たとえ身内でも貸さなくてもいいんじゃない」っていう考えで。

 

嬉しいというか、「そういう考え方もあるんだ」って驚きました。ひろゆき君との出会いで私の考え方も徐々に変わっていったのですが、それまではずっと親から「今までずっと面倒をみてやったのだから、恩返しをして当たり前だ」って言われてきて。だから親がお金に困っていたら、貸さなければいけないんだと思い込んでいたんです。

 

ひろゆきさんと妻のゆかさん
ひろゆきさんと出会って間もない頃

── ひろゆきさんの考え方は、どういった部分でゆかさんの支えとなりましたか。

 

ゆかさん:感情的に話すだけだと、ただ“かわいそう”っていう感想で終わってしまいます。でも、ひろゆき君は“結局、何を問題だと思っているのか”という部分に焦点を当てて話を聞いてくれるんです。

 

当時の私は、金銭の貸し借りがイヤだったというより、「来月返す」と言ったのに「やっぱり再来月」「3か月先」と言い続けられ、結局返ってこないときの失望感のほうがつらかった。そうやって信頼関係がどんどん失われていってしまうことが、悲しかったんです。

 

そのせいで親に対しての嫌悪感が大きくなり悩んでいた私に、ひろゆき君は「僕だったら“別に返ってこなくてもいいや”っていう気持ちで貸すから、結果どうなっても気にならない。でも返ってこないことで信頼関係が損なわれてイヤな思いをするなら、やめちゃば?」と言ってくれて。

 

── ひろゆきさんの言葉で、ゆかさんの気持ちもラクになったのですね。

 

ゆかさん:たとえ親であれ、やりたいことを押し殺してまで自分を犠牲にする必要はないと思うんです。でも、他人を変えるのはすごく難しい。だから、自分の中できちんと「ここまでは助けてあげられるけれど、これ以上は無理」というラインを決めるべきだと思う。そのバランスを見つけるのが大事だと思います。

困ったら人に頼ることができるように

── ひろゆきさんとの関係性によって、ひとりで頑張ることにこだわらず、困ったら人に頼ることもできるようになったそうですね。

 

ゆかさん:そうですね。自分でやるよりもほかの人に頼んだほうがスムーズに事が運ぶと判断した時点で、すぐ周りに相談するようにしています。でも、ひろゆき君自身は実は、人に頼むのが苦手な性格なんですよ。全部自分でやろうとして、結果としてすべて上手くいかなくなることも…(苦笑)。

 

西村ひろゆきさんと妻のゆかさん
現在はフランスで暮らすゆかさんとひろゆきさん

── 意外な一面です(笑)。得意な人にまかせたほうが結局、時間も無駄にならずにすむことが多いですよね。

 

ゆかさん:そうですよね。たとえば、うちの祖父母は介護サービスを利用していたのですが、それは友人に訪問介護士の方がいて、いろいろと相談にのってもらえたからで。家に来てもらって、どんなサービスを利用できるのか具体的に相談できたのが大きかったと思います。

 

世の中には利用できる制度があっても、存在自体を知らずに利用できない人もいる。元気なうちに行政のサービスや制度を事前に調べて知っておいたほうがいいと思います。

生活保護を一度断られた母に付き添い

── 年配の方の場合は特に、公的制度の情報までたどり着けない人もいるかもしれません。

 

ゆかさん:それに、知っていたとしても実際に申請に行くのはなかなか大変です。私の母は後年、生活保護を受けていたのですが、最初に母ひとりで窓口を訪ねたときには受給を断られてしまって。母が困窮している状況を職員に的確に伝えられなかったせいだと聞き、私も同行して再び申請をしに行きました。

 

生活保護を申請するにあたって、親族が経済的な支援ができるかどうか、あらためて確認されたのですが、当時の私は結婚もしていなかったし、普通の会社員だったので、母の生活にかかるお金をすべて負担することは難しくて。その状況を伝えたところ、無事申請が通りました。

 

私の母のように、自力で申請することができない人も多いと思うので、難しければ周囲の人に助けてほしいと声を上げることも必要だと思います。

「親が死んでホッとした」と著書に書いた真意

── 著書の後半には「両親が亡くなってホッとした」という心情が書かれています。このような気持ちを赤裸々に書くのには、勇気が必要だったのではないですか。

 

ゆかさん:親子関係を取り上げるとなると、どうしてもきれいな部分を書きがちですよね。でも私の場合は、素直によかったって思えない親子関係だったので、そういう部分も隠さずに書きたいと思っていました。“なんて冷たい人なの”って言われるかもしれないけれど…同じように親との関係にわだかまりを感じている人に、“こういう人間もいる。あなただけじゃないよ”っていう気持ちを伝えたかったんです。

 

── それはゆかさんの中で、ご自身の家族関係を受け入れられるようになったということでしょうか。

 

ゆかさん:そういうことかもしれません。誰でも人生の最期を迎えるときは、穏やかに過ごしたいって願いますよね。見守る家族もそう願うのが当然で。でもそれって少し、きれいごとというか…。そう思えない状況も、絶対にあると思うので。

 

私の場合、母とは晩年心穏やかに過ごす時間を持てて、子どもの頃に大好きだった母が戻ってきたような瞬間もあったんです。だから、最期は安らかであってほしいと願っていました。でも、父に関しては残念ながらそう思えなかった部分もあって。父とは過ごした時間も短かったし、一方的に見捨てられるような形で別れたせいもあり、大人になってからもいい関係を築けなかったんです。

 

── お父さまが亡くなったときはどのように感じましたか?

 

ゆかさん:私がフランスに移住してすぐに父のがんがわかって。最期に会いたいと連絡が来たのですが結局、叶わないまま亡くなってしまいました。そのときはかなり取り乱しました。“もうこれで全部終わってしまったんだ”っていう喪失感がわいてきて。父とやり直せると期待していたわけではないけれど、死んでしまった今はもう、その可能性すらなくなってしまった。その現実に対してガッカリした、というのかな…。

 

だからといって、父との関係性を無理やり“いいもの”としてとらえるのも、何か違うと思いました。でもそのときに、こんなふうに感じるのは親子という関係だからこそなのかもしれないと気づいて、やっと自分の中にあったモヤモヤとした思いに少し折り合いがつけられた気がします。

 

 

PROFILE 西村ゆかさん

1978年生まれ。東京都出身。インターキュー株式会社(現GMOインターネット株式会社)、ヤフー株式会社を経てWebディレクターとして独立。2015年よりフランス在住。著書に『だんな様はひろゆき』(朝日新聞出版)、『転んで起きて』(徳間書店)。X(@uekky)で日々の気づきを積極的に発信中。

 

取材・文/池守りぜね 画像提供/西村ゆか