2003年に南海キャンディーズを結成した山崎静代さん。コンビ結成後早々に、2003年、2004年とM-1に出場すると、急激に世界が変わっていったと言います。(全3回中の1回)
笑わせんと、意味ないやろ!
── 出生時に5000グラムというひと際大きな赤ちゃんとして生まれてきたそうですね。幼少期はどういう子だったのでしょうか?
山崎さん:保育園の高学年のあたりからひとりで遊ぶことが多かったですね。当時はおニャン子クラブにすごく憧れていて、架空の女の子を何人も作って、アイドルオーディションをする、という遊びをしていました。姉と一緒に遊ぶことも多くて、最大でも2票しか入らへんのに「ファンも増えたし、そろそろデビューでもするか!」と、偉そうにプロデューサーみたいなことを言ってましたね。
── 進路を決めたのはいつ頃ですか?
山崎さん:決めたというか…私、高校を卒業したんですが、就職する気が全然なくて。そこで入ったのが劇団ひまわりの養成所でした。まあ、アイドルのプロデュースごっこをずっとしているくらいなので、芸能界には興味があったんですよ。
で、養成所の授業で、設定を自由に考える“自由演技”ってのをしたんです。無茶苦茶ながらも自分なりになんとかやるんですけど、そのときに「どうやったら笑ってもらえるんやろ?」ってことをずっと考えている自分に気づいて。「笑わせへんと、意味ないやろ!」って。それでネタを書くようになったんですよ。そしたら、誰かとやりたくなって。中学の同級生にNSC(吉本総合芸能学院)に行った子がおったんで、その子とコンビを組んだんです。
──「西中サーキット」ですね。2002年にはABCお笑い新人グランプリの審査員特別賞も獲得されましたが、相方の引退を機に解散。一時は「山崎二宮」というコンビを組むも2003年に山里亮太さんに誘われて「南海キャンディーズ」が誕生しました。南海キャンディーズを結成して、すぐに結果は出ましたか?
山崎さん:いやいや、全然。最初の頃はいっさいウケませんでしたね。私も山ちゃんも、当時はお互いにボケ担当。ボケ同士が組んだらおもろいんじゃないかってことで、ダブルボケ路線だったんですよ。あの頃は「笑い飯」さんのダブルボケが有名で、あれとは違う形で両ボケを成立させたいって想いがあったんです。変わったことをやろうとしすぎて、ずっと失敗続き。そしたら、山ちゃんがツッコミに回ると言ってきたんです。実は私、ずっとツッコんでほしいと思ってたんですよ。なので内心「やっと気づいてくれたんか?」って感じでしたね!
── では、ずっと待っていたんですね?
山崎さん:そうです。何も言わずにね。そして新しい形でやってみたら…これがウケた。これならいけるんじゃないかってことで、今の形になっていくんです。そこからはもう、M-1(漫才グランプリ)を取りにいくために準備を始めました。M-1の決勝にさえ出場できれば、絶対に売れると思っていたので、そればかり練習していましたね。
── M-1は漫才師の登竜門。2003年にコンビを結成して初年度に初出場して、準決勝進出。翌年の2004年には決勝に進んで準優勝を勝ち取りました。「南海キャンディーズ」の名は一気に全国区になりましたね。