無意識に、髪の毛を抜いてしまう抜毛症。現在、スキンヘッドに炎や水をほうふつとさせるペインティングをほどこし、観衆の前でパフォーマンスする土屋光子さんは長年、髪の毛を抜く習慣に苦しんできました。抜毛症カミングアウトまでの葛藤を話してくれました。

 

母になってから「スキンヘッド」になった光子さんの姿

小学1年生から無意識に髪の毛を抜いていた

「小学校1年生のころから、テレビを観るときや寝る前に無意識に髪の毛を抜いていました。多いときは数十本も…」。

 

当時、髪の毛を抜く行為はよくないと感じた土屋光子さんは、抜かないように手袋をして寝るなど自制を試みましたが効果なし。「中学生のときには頭頂部が薄くなり、懸命に隠す日々でした」と振り返ります。

 

30年が経ち、出産後、ようやく抜毛症を公表した光子さん。いま、仲間とAlopecia Style Project Japan(ASPJ)という団体を立ち上げ、髪の毛がない人と世の中をつなぐ活動を始めました。

 

ずっと悩みの種だった髪を剃り、スキンヘッドモデルやパフォーマーとして啓発イベントも主催しています。

 

スキンヘッドでパフォーマンスをする仲間たちとペイティングをほどこす

「髪の毛を抜くきっかけは、当時はまだ幼かったため自分が感じていることを言葉に出せないストレスやジレンマがあったり、母が喜怒哀楽の激しいタイプで、その影響を受けていたかもしれません。でも、これは抜毛症の“原因” とは限りません。家庭環境が改善すれば抜毛がおさまるかはわかりません」

 

抜毛はその人の特質、心の動き、環境など、さまざまな要因が考えられ、こうすれば症状がおさまるとは一概に言えません。また、抜毛行為は隠すこともできるので、一人で抱えている方も多く、実態が不明瞭であり、症状の現れ方も人によって異なります。

 

光子さんの場合、小学校低学年のとき、心配したお母さんが近所の内科に連れて行きました。

 

お母さんの「この子、髪の毛を自分で抜いちゃうんですよ」という説明に、光子さんは「やってはいけないことをしているんだ、やめられない私は悪い子だ」とショックを受けます。看護師さんから髪をかき分けられ調べられた経験は、トラウマに。

 

「こんなこと誰にも言えない、私は世界一、変なんだ…って絶望的な気持ちになりました」

高校時代に買ったウィッグは20万円もして…

中学生になると頭頂部の地肌が見えるほど症状は悪化。ヘアアレンジを工夫して必死で隠す日々でした。

 

「家族にも隠していましたが、偶然、身支度しているところを見てしまった父親に育毛剤を渡されて、“そうじゃない!おじさんの薄毛と一緒にしないで!”って、イラっとしました」

 

中3のころ、光子さんに初めての彼氏ができたのですが、髪が気になってデート中もヒヤヒヤ。

 

「女子は男子から頭をポンポンされてキュンとするはずなのに、私は『さわらないで』と緊張。少しでも視線が頭にいくと『バレた!?』と気が気ではありませんでした」

 

千葉市での障害の有無に関わらず、皆で一緒に行う文化芸術活動を応援する「チバフリ」ショーモデルとしてペインティング中

高校入学時には頭頂部が薄くなり、サイドもはげている状態に…。これはウィッグに頼るしかないと、渋谷109で数千円のギャルウィッグを購入します。しかし、不自然さが目立つため、勇気をふりしぼって大手ウィッグメーカーのフリーダイヤルに電話して、部分ウィッグを買おうとしたそうです。

 

「女子高生がひとり、ウィッグの説明を聞くなんて恥ずかしいし、悲しい。やりきれない思いでした」

 

このとき買った本格的なウィッグは20万円。高校生にはとても払えない額で、離婚して家を出ていった母を呼び出し、「ウィッグ買うから、お金出して」と迫りました。

 

「お母さんのせいでこんなことになってごめん」の言葉に、苛立ちを隠せない光子さん。

 

「いまは両親とも良い関係ですが、当時は反抗期で、親への不満など言葉にならない感情がいっぱいでした」

 

その後、光子さんはバイト漬けの日々を送り、数十万円のウィッグを自身で購入。基本的にウィッグは同時に2台買い、交互につけて長持ちさせる使い方がメーカーから勧められるそう。でも、高校生の光子さんには十分なお金がないため、同時に2台は買えず、その結果、1台を使い続けてより早く消耗させてしまいました。

 

「ウィッグは毎日使うと1年くらいで買い替えなので、金銭的負担は大きかったです」

結婚後も夫に抜毛症のことを秘密にしていた

高校卒業を前に、光子さんは「誰も私のことを知らないところへ行けば、髪を抜くクセも治るかも」と、アメリカ行きを夢見ます。

 

ところが、高3の3月に原宿でスカウトされ、アイドル発掘オーディション番組に出演、6人の最終メンバーに残りました。芸能活動を通じてヘアメイクの仕事を間近で見て興味をいだき、ヘアメイクを皮切りにエステティシャン、ベンチャー企業といろんな職種を経験。

 

「その後もウィッグを買い替えるために、なりふりかまわず働き続けました。でも、30歳を前に、髪を理由に多くのことをあきらめてきた人生に疑問を感じたんです」

 

じつは10代のころ、光子さんは舞妓に憧れていたのですが、地毛で日本髪を結うしきたりのため、あきらめていました。30歳を目前に控え、“後悔しないため”に、つてを頼り芸者の道へ。

 

新橋での芸者時代に日本髪のカツラを着用していた光子さん

とはいえ、芸者もふだんは地毛。そのため、髪結いの方に頼んで残っている毛を膨らませたり、つめものしたりと工夫しました。行事や人前で踊りを披露するときは、芸者はみな日本髪のカツラをつけます。

 

「お座敷では、通常自分がつけているウィッグの上に、さらに日本髪のカツラをかぶるので、二重のウィッグになるよくわからない状態でした(笑)」

 

ようやく憧れの職業についたこの時期、生涯の伴侶と出会います。相手は、33歳年上の日本舞踊の師匠。やがて子どもを授かり仕事を引退しました。

 

「好きな人と一緒に暮らして、家庭という安住の地を得られたら、髪を抜くクセもなくなるかもと期待していましたが、現実は変わりませんでした」

 

授かり婚により家族3人そろっての結婚式

当時、使っていたウィッグは残っている地毛に結びつけるタイプなので家でも着脱することはなく、ご主人にも抜毛症を隠していたそうです。

 

しかし、子どもが生まれて生活が一変。子育て費用や教育費を見積もると、金銭面でも生活設計を考え直さなければいけなくなり、この時期、光子さんは産後うつ状態に。

 

「ウィッグにかけたお金を合計したら、車を何台買えたか…。一生、ウィッグ代のために働くの?これからも髪を言い訳にいろんなことをあきらめるの?」と、光子さんは自分に問いかけました。

 

「高額のウィッグをつけていることがストレスになるなら、やめちゃえばいい。治そうなんて思わず、ありのままの自分でもっと楽に生きたい」と、考えがまとまったのは、結婚から4年目の次男出産後のことでした。

 

「ウィッグをやめて、悩みのもとだった髪の毛を、全部そってしまおう!」

 

一度決めたら、すぐ実行に移したくなる光子さん。ご主人に抜毛症を打ち明け、子どもにもスキンヘッドになる決意を伝えました。そして、ありのままの自分で生きるために、世の中に向けても抜毛症をカミングアウトする決心をしたのです。

 

PROFILE 土屋光子さん

埼玉県出身。幼少期より抜毛症の症状があり、結婚・出産を経て2016年に抜毛症をブログで公表。髪のない人と世の中との接点を作り出すAlopecia Style Project Japan(ASPJ)代表。スキンヘッドモデル・パフォーマー、2児の母。ASPJでは毎月第3土曜日21時「オンラインおしゃべり会」を開催。

 

取材・文/岡本聡子 写真提供/土屋光子