アイドルグループ「でんぱ組.inc」のメンバーとして活躍し、独立後はマルチに活動している最上もがさん。2021年には第一子となる娘の"こもちゃん”(愛称)を出産し、シングルマザーとして子育てにも励んでいます。

 

でんぱ組時代から女優やモデルなど個人としても人気を集めていた最上さん。「もともと人と関わることが苦手だった」と話す彼女はなぜ、人前に立つアイドルの仕事に向き合えたのでしょうか?自身の半生を綴った初のフォトエッセイ『も学 34年もがいて辿り着いた最上の人生』を上梓した最上さんに伺いました。(全5回中の1回)

 

最上もがさん

「履歴書を書くのがすごく嫌だった」

── 最上さんはお父様のリストラを機に、芸能界に入られたそうですね。目立つのが苦手なタイプだったそうですが、注目を浴びるアイドルの仕事に抵抗感はなかったのでしょうか?

 

最上さん:人前に立つのが嫌というよりは「恥ずかしい」という気持ちが大きかったですね。自分に自信がなかったので、何をするにしても「悪くとらえられるんじゃないか」「かっこ悪い自分を見てほしくない」と思ってしまう。でも、私は働かざるを得ない状況になり、日雇いのアルバイトをしていたら、たまたまスカウトされて。

 

アイドルになりたかったわけではないので「どうしたらいいんだろう」と思いながらも、とにかく働かなきゃ、行動を起こさなきゃと思っていたので。ただ、私は履歴書を作るのがすごく嫌だったので、ある意味ラッキーではありました(笑)。

 

── それは履歴書を書くのが苦手だった、ということでしょうか?

 

最上さん:証明写真を撮るのがすごく嫌だったんです。証明写真って自分の顔がリアルに映ってしまうし、いつもよりブサイクに見えませんか?免許証やパスポートの更新のために写真を撮ると、自分の顔を見てへこんじゃうんですよね。

 

履歴書を作ろうとしても書けることが少なくて。資格も何も持っていないし、人より伸ばせるものが何もないと思っていたので、履歴書を見るとさらに落ち込んでしまうんです。

 

でもスカウトで入ることができれば『履歴書も出さなくていいし、面接もしなくていい!』と。要は社会人として通らなければならない就職活動というのが私にとってかなりネックだったので、それをパスできるのはとても魅力的だったんです。

 

加入前のでんぱ組のイベント時に、アルバイトでどら焼きを配っていたらスカウトされたのだという最上さん

── なるほど…!

 

最上さん:それと、誘ってくれたプロデューサーの“もふくちゃん”がとても人柄がよかったのも大きいですね。私は引っ込み思案な性格で、押しに弱かったんですよ。もふくちゃんとは今もすごく仲良くしてもらっているし、声をかけられたのが彼女じゃなければ絶対に続いていなかったなと思います。

最初の頃は毎日泣いていた…徐々に「責任感が強くなった」

── アイドルとしての日々にはすぐに馴染めたのでしょうか?

 

最上さん:最初の頃は毎日胃が痛くて、不安や緊張で家に帰ったら泣いてしまうこともあって、夜も上手く眠れない日が多かったです。当時の活動拠点は秋葉原だったのですが、実家から電車で1時間半くらいかかるんです。社会人として遅刻は絶対ダメだと思っていたので、遅延する可能性もあるからとにかく早く起きて、1時間前には現場に着いている日もありました。緊張しながらずっと扉の前に立っているみたいな状態で…。

 

でも、みんな遅れてくるから「別にここまで気張らなくていいんだ」と気づいたんですけれど(笑)。加入直後はすべてが初めての経験だったので、失敗が怖くてずっと不安でした。

 

最上もがさん
でんぱ組inc.時代から金髪ショートがトレードマーク。”金色の異端児”とのキャッチコピーで親しまれていた最上さん(写真提供/本人)

── 秋葉原の小さなステージから始まったでんぱ組は、2014年には単独の日本武道館公演を成功させるなど徐々に全国区の存在になっていきましたね。

 

最上さん:でんぱ組の事務所自体が大手ではなかったので、たとえば番組の枠を持っているわけではないし、企業とタイアップを組めるような繋がりもなく、自分たちでひたすら努力するしかなかったんですよね。

 

自分たちのアピールはそれぞれSNSで頑張るしかなくて。ただ、ちょうどSNSが流行り始めていた時代だったので、それを利用していろんな人たちに見てもらう機会が増えたのかなと思います。

 

── でんぱ組がメジャーになるにつれて、仕事に対するモチベーションも変わっていったのでしょうか?

 

最上さん:モチベーションというよりは、責任感が強くなっていきました。初めは家庭の事情でこの世界に入ったものの、毎日一生懸命がむしゃらに過ごすしかなくて、そのうちにメンバーやスタッフ、応援してくれるファンの皆さんに対して「大切」という感情が芽生えてきたんです。

 

最上さんは青年誌『週刊ヤングジャンプ』の表紙を飾るなど、個人としても驚異的な人気を集めていた

苦手なグラビア撮影も「でんぱ組を知ってもらう“入り口”になれれば」

── 最上さんは青年誌の表紙を飾り、ドラマや映画に出演するなど、個人としての活動も増えていきました。それも「グループのために」という気持ちが強かったのでしょうか?

 

最上さん:その気持ち以外はなかったですね。私の場合はそもそも「自分が有名になりたい」とか「将来は独り立ちしたい」という目的があってグループで活動していたわけではないので、ソロで活躍したいという気持ちはまったくありませんでした。

 

でも「大切」と思っているこのグループをずっと続けていくためにはどうしたらいいか考えたときに、有名にするしかないと思い始めて…。だから私はでんぱ組を知ってもらうための間口は広いほうがいいと思ったんです。

 

最上もがさん
「でんぱ組を知ってもらう"入り口”でよかった」と自身の存在理由を語った最上さん

── なかには苦手なお仕事などもあったのではないでしょうか?

 

最上さん:初めはグラビアに対する気持ちも自身を納得させるためには時間がかかりましたし、それがきっかけで私へのアンチも増えてしまいました。私だけが集中的に攻撃されるのはツラかったのですが、自分が不得意だと思う仕事も、グループの貢献になるはずだと信じていて。

 

ドラマや映画の撮影がツアーの日程に丸かぶりすることもあって、スケジュール的にはかなりキツかったのですが、それも自分のためではなくて、グループのためにと思って向き合ってきましたね。

 

PROFILE 最上もがさん

1989年生まれ。東京都出身。2011年アイドルグループ「でんぱ組.inc」に加入し芸能界デビュー。2017年8月にグループ脱退。脱退後は、個人事務所を設立しマルチに活動中。2021年に第一子出産。

 

取材・文/荘司結有 撮影/植田真紗美