たまたま頼まれてマネキンのかつらを創るように

── 美容室を辞めた後はどうされたんですか?

 

京子さん:お金がなかったから、近所のお豆腐屋さんで豆乳を買って、1日1本飲んで過ごしました。1か月に一升のお米だけで暮らしたこともあります。

 

7か月くらい経ったころに、姉のご主人から呼ばれて、「かつら屋さんがマネキン人形の仕事を依頼されたんだけれど、できないというからやってみてくれないか」って言われて。マネキン人形のかつらの製作が始まりました。

 

── その頃、幸三さんと出会われた?

 

京子さん:わたくし若い女性をたくさん知ってますでしょ?だから、幸三さんのお姉さんから、「お嫁さんを世話してほしい」って頼まれたんです。わたくし、最初は仲人のつもりだったんですよ。幸三さんは女性とデートもして、お返事を待っていたのですけれど。わたくしのほうに来ちゃったんで(笑)。

 

マキシマ研究所の巻島京子さんと巻島幸三さん
色とりどりのマキシマクラウンをバックに

── 幸三さんとご結婚後は、マネキンのかつらを本格的に創られるようになったわけですね。

 

京子さん:ええ。京都と滋賀で約20年、マネキンの仕事をしていました。当時は洋服の宣伝用にマネキンがたくさんデパートに並んでいて、わたくしはかつらをたくさん頼まれたんですね。そうすると美容師さんやかつら屋さんが「習いたい」と言って来て。お弟子さんもどんどん増えました。

 

もうね、1000人くらいに教えたんじゃないかしら。わたくし、一人ひとりの個性に合わせた教え方をするから、もう人に教えるのくたびれたんです。最初は月謝をもらうつもりだったのだけれど、そういう時代ではなくて。逆に月に少しずつのお給料と交通費も払ってました。みなさんにお金を払うためにわたくしは夜なべして…。

 

それなのに、やっと役に立つくらいまで育ったと思ったら、よそに引き抜かれてしまうんですよねぇ。

 

20年くらい前に東京の谷中に移り住みました。わたくしがマキシマクランをかぶって街を歩いているのもあって、よく「作り方を教えてほしい」って言われるんです。帽子屋さんが多いんですけど。でも、谷中に来てからはもう人に教えるのは疲れてしまって、創作一筋です。仕事一途な人生です。気づいたら91歳です。