生きていくため美容師になった

── ひまわり社にいた後はどうされていたんですか?

 

京子さん:家庭の事情で、ひまわり社をやめてまでも家を出たかった。雨露しのげて、どんなにこき使われてもいいから、食べさせてくれるところを探したわけです。

 

その時代、そういう仕事ができるのは美容室くらいでした。当時、お出かけというと、一張羅を着て、髪の毛をきれいにセットして…というのが当たり前でしたから、いくらでもお弟子さんが必要だったわけです。

 

マキシマ研究所の巻島京子さん
フランスのファッション誌に掲載されていたカクテルドレスをもとに作ったという仕事着を着た京子さん。「美容師時代のお客様に100着ほど作ってもらったんです」

ところが、わたくしが勤めた美容室は、「その美容室で弟子が務まったら日本一のお弟子さん」と言われるくらい厳しいところで。大変でしたね。

 

ですけれど、その美容室の若先生が、わたくしをモデルに日本一の研究所へ連れて行ってくださったんです。ある日、美容家の名和好子先生のところへ連れて行ってもらったのですが、そのときあまりにも素晴らしい先生に感じ入り、「わたくし、美容師になろう」と初めて心から思いました。それから8年、美容師として働きました。

 

自身が創ったアクセサリーを身に着けたマキシマ研究所の巻島京子さん
自身が創ったアクセサリーを身に着けて。宝飾品もたくさん創作・販売してきた

最初、急にお客様をまかされたんです。技術的にはまだ未熟だったけれど、ちょっと毛の流れをいつもと違う方向へ変えてみるとか、分け目を少しずらしてみるとか、それだけでずいぶんとお客様の印象が違ってくると気づいてね。

 

お客様が「こうなりたい」という気持ちが理解できたからでしょうか、一度まかされたお客様はみんなわたくしの担当になりました。遠いところからもたくさん通ってくださって、わたくしは幸せだったと思います。

 

結局、身体を壊してしまって辞めたのですけれど。でもなかなか辞めさせてくれなくて、美容室は住み込みだったから、夜中に店を出ました。