美に人生をかける91歳の女性がいます。世界でたったひとつの頭飾品「マキシマクラウン」創始者の巻島京子さんです。夫である幸三さんとゼロから新しい美の世界を創り出した、京子さんの働く女性としての生き方とは?(全2回中の2回)
「ひまわり社」の仕事は夢のように楽しかった
── 京子さんは、かつて昭和初期に画家や編集者などで活躍した中原淳一氏の「ひまわり社(当時ヒマワリ社)」に勤めていたそうですね。
京子さん:わたくしは、もともと女子美術学校の前身にあたる佐藤高等女学校に通っていました。声楽家になりたくて、声楽とピアノの先生に教えていただいていたんです。第二次世界大戦中でした。でも、戦争で学校が焼けてしまって…。
1945年4月13日の東京大空襲では家が焼けてしまって、やっとの思いで茨城県に疎開しました。終戦後は東京に戻り、わたくしは神田神保町のひまわり社に勤めるようになって、毎日通いました。
毎日、夢のように楽しくて。朝起きて、かまどでご飯を炊いて、まだみんなが寝ているなか、ひとりで食べて出かけるんです。
── そんな早い時間に出社されていたんですね。
京子さん:ええ。まだ暗いうちに。それで、ひまわり社では勝手がわかってますから、裏口から入って、会社の窓を全部開けて、掃除をするんです。下っ端でしたからね。
── ひまわり社ではどんなお仕事をされていたんですか?
京子さん:1階が小売り部で、淳一先生のすべてが置かれているんですね。洋服、人形、バッグ…。ショーケースには、木で作られたアクセサリー類もありました。
そのなかでね、どうしても売れないアクセサリーがひとつあったんです。わたくし、その売り場を任されてから、「もったいない」と思って、その商品をいちばんメインに並べてみたんですね。あと「こんなふうに並べたらどうかしら?」と並べ替えてみて。そうしたら、その日のうちに売れちゃって。
一度スポットライトが当たって、誰かが気持ちを向けると、それはその人にとって宝物に見えるんですよね。そう思います。