「チャレンジしたかった」。そんな自分の思いに素直になり、40代で司法試験にチャレンジした生井みな絵さん。小学校の主幹教諭を務め、3人の子どもを育てながら挑んだキャリアチェンジと、勤めていた教育現場で「心残りだった」ことを伺いました。
就職氷河期で地元秋田へUターン
2001年に早稲田大学卒業後は地元の秋田に戻り、特別支援学校(当時の養護学校)の実習助手として仕事を始めた生井さん。教員免許は持っていなかったため、はじめは臨時採用という形で現場に入りました。
「学生時代は司法試験を目指していたんです。でも大学4年のときに試験に落ちてしまって。その頃、障がい児教育を扱ったトリイ・ヘイデンの『シーラという子』を読んで、教育もおもしろそうだと思ったんです。学校は決まったことを教えるイメージでしたが、その本からは自分で工夫できることを知り、興味を持ちました」
2年間働いたのち、通信制大学で小学校教諭二種免許状を取得。別の小学校で常勤講師として、普通学級の担任になります。
「小学2年生の担任でした。振り返るとできていないことばかりです。でも1年目から裁量権を持って取り組めましたし、子どもたちは『先生』と頼ってくれたので、楽しかったです」
やりがいを感じた生井さんは通信制大学でさらに小学校教諭一種免許状を取得。正規採用として、2004年から宮城県の小学校に赴任しました。
「私なんで、ここで教師しているんだろう」
気仙沼の小学校に配属された生井さんですが、ここであることに戸惑います。
「家庭訪問のたびに『なんで秋田の人が気仙沼で働いているんですか』と聞かれ続けたんです。そのうち、私も『何でここで、この仕事しているんだろう』と自問するようになって。司法試験に落ちて、就職も氷河期で難しく、教師をして充実していたけれど、やっぱり、自分のやりたいことは弁護士だと思い、東京に行って、もう一度司法試験を受けようと思いました」
司法試験に備えるため、再び東京へ向かうことにした生井さん。小学校教員採用試験を受け直し、2006年に東京都の特別支援学級の担任になりました。