中学2年生から6年間ひきこもりを経験した、お笑いコンビ「髭男爵」の山田ルイ53世さん。ひきこもった6年間は、自分にとって「ムダだった」と振り返ります。そう言いきるのは、どんなことにも意味や意義を求めがちな世間への違和感もあるそう。失敗やつらかった経験、高いプライドなど、受け入れがたい自分自身と、どう折り合いをつけるのか。山田さん流「人生の向き合い方」とは。(全5回中の2回目)
「ムダを許せない」空気感がしんどい
── 過去のインタビューで、引きこもりだった6年間を「無駄だった」とおっしゃっています。人はつい「このつらい経験があるから、今の自分がある」と意味を見いだそうとしがちだと思うのですが、なぜ山田さんは割りきれたのですか?
山田さん:別に悟りを開いたわけでも、何でもないんですけど(笑)。
ただ、単純に自分には、圧倒的に後悔があるんです。引きこもっていたことや学校に行かんかったこと、たいていの人が通るであろう道を通らずに来てしまった、ということに対して。
そういう気持ちが多少やわらいだのが、お笑いで「ルネッサーンス」言うて一発当てて、ご飯を食べられるようになってからなので。
それまでは「人生、余ったな」という、虚無感がずっとありました。
あの6年間で、友達と楽しく遊んだり、修学旅行に行ったり、部活で汗流したりしたほうが、絶対に良かったな、と。
当時は毎日しんどかったし、嫌な気持ちで過ごしていたから「あんなもんに意義があってたまるか」という気持ちもあります。
── そうだったんですね。
山田さん:あと、思うのは「なんでも意味や意義がないとダメなんかい」というね。なんでも糧に、栄養にせなあかんのかな、という。
世間の「無駄を許せない空気感」が、しんどくさせている部分ってあるんじゃないのかなと思って。
つらい時期に出会った趣味や音楽とかが、今の自分につながっていて「あの時間も無駄ではなかったな」という人がいても良いし、そういう人がたくさんいたほうが健全だとは思うんですけど。
一方で、自分の人生において「あれは無駄やったな」ということを、無駄のままにしておく自由はあると思うんですよ。他人によって有意義に変えられる言われはなくて。
それはつまり、世間やその人自身が、とにかくなにかしら意味がある、有意義だったという結論しか許容できない、息苦しさがあると思うんですね。人生なんか無駄だらけでスカスカなんですから。
── エッセイの中でも、コロナ禍の「こんなときだからこそつながろう」の、「こそ」について「暴力的だ」と語っていますね。
山田さん:そうですね。あんなに暴力的な「こそ」の使い方というのがあるんか、という。
果たして辞書に載ってるのかわかりませんけど、「こそ」ひとつですべてをひっくり返すというかね。その「こそ」に根拠はないがなという。なんで、こんなときこそみんなでつながっていかなあかんねん、前向きにならなあかんねん、という。
エビデンス不足の強引な「こそ」が使われてすぎている。言葉の暴力だと言っても過言ではないです。