「ワダツミの木」が生まれた名プロデューサーとの出会い

── ご両親を説得し19歳で上京されましたが、デビューまではもう少し期間がありますね。

 

元さん:
上京してからは事務所に所属しながら、HMV(CDショップ)でアルバイトしたり、事務所の先輩の杏子さんや山崎まさよしさんのコンサートの手伝いをして勉強したり。

 

デモテープを録ったりもしていました。それまでシマ唄しか歌ってきていなかったので、自分がどんな曲を歌うのかイメージはまったくありませんでした。

 

この珍しい歌声をどう活かそうかとデモテープをいろんな方に聴いてもらうなど、周りもずいぶん考えてくれました。

 

のちに『ワダツミの木』をプロデュースすることになる現ちゃん(上田現さん)とは、インディーズでミニアルバムを出したときに出会いました。

 

やがて、現ちゃんの才能にほれこんだ事務所の社長が「彼に任せよう」と閃いたのですが、現ちゃんは自分のバンド(LA-PPISCH)で全国を飛びまわっていたのでなかなか連絡がとれない。とにかく「上田現を探せ!」と皆で探し回りました。

 

オフィスオーガスタ創設者で元さんのプロデュースを手掛けてきた森川欣信最高顧問とオーガスタキャンプのバックステージで

── 上田現さんは、『ワダツミの木』作詞作曲・プロデュースをはじめとし、その後、元さんのために何曲も書かれています。

 

元さん:
初めてお会いしたときは、“怖そうなおっちゃんだな~”と思いましたが、実際は全然そんなことはなく、プライベートでも本当に仲良くさせてもらいましたし、私の音楽には欠かせない存在でした。

 

じつは、デビュー曲は別の曲になる可能性がありました。レコード会社と事務所の間で意見が分かれまして。

 

結局、現ちゃんプロデュースの『ワダツミの木』になりました。現ちゃんは2006年に肺がんで余命宣告を受けたのですが、その後も一緒に仕事しました。

 

病気のことはすべて話してくれたのですが、亡くなるとはどうしても思えなかったです。

 

闘病で変わっていく姿を間近で見ながら、どこかで現ちゃんなら逆転ホームランを打って、治るんじゃないかって信じていました。

 

── 2008年に上田現さんが亡くなって以降、カヴァーアルバムやシマ唄アルバムは出されていますが、オリジナルアルバムの制作は今回の『虹の麓』まで14年を要しました。

 

元さん:
やはり現ちゃんの存在は大きかったんだと思います。何げない日常を送れることがこんなに幸せだったと気づかされるできごとでした。

 

コロナで人と会えなくなったり、争いが起きたり、それまで当たり前だと思っていたことが当たり前ではなかったと気づかされることが多く、今回のアルバムはあたたかいつながりをなんとか取り戻したい気持ちをこめました。