7月に行われたワンマンライブでは久しぶりに素足で熱唱する姿が!

電話口で思わず言ってしまった“ひと言”が、歌手・元ちとせを誕生させます。史上最年少で奄美の民謡大賞をとって歌声がプロの目に留まり、トントン拍子で…と思ったら、元さんが奄美大島から向かった先は関西での美容師修業。いったい、この電話、どこでどうなったのでしょう。

高校卒業後は美容師になるため関西に行くも

── 元さんの魂をゆさぶるような歌声を聴いていると、歌うために生まれてこられたように感じます。歌で生きていくと早くから決意されていたのでしょうか?

 

元さん:
歌で生きていくなんて想像もしていませんでした。

 

小学5年生で三味線を始めて、中学生からはシマ唄に夢中になりましたが、同級生からは「おじいちゃん、おばあちゃんのやることでしょ」とみられていて。

 

祭りなどで歌うときも、友だちの前だと気恥ずかしく感じました。高校生のとき、奄美で行われる民謡の大会でそれまで年配の方の優勝が続いていたなか、史上最年少で大賞をとったんです。

 

それでテレビに出たりしたのを見たレコード会社の方からいくつか連絡をいただきました。

 

どこも書面での連絡だったのですが、1社だけ、奄美でもかなり離れたところにある私の家まで、東京から8時間かけて訪ねてくれたレコード会社がありました。

 

でも、母は30分で追い返しちゃって。芸能界なんて当時の奄美の人からすると怪しすぎますからね(笑)。

 

『ワダツミの木』の神々しいイメージによって、デビュー当時は友だちができにくかったのだそう

── せっかく何社からも誘いがあったのにもったいない…。歌手になるチャンスがあったわけですが、興味はあったんですか?

 

元さん:
歌手になるつもりはなくて、高校卒業後は関西へ行って美容師になりました。

 

奄美では一度は島の外に出る人が多いのですが、私も母から「都会で勉強してきなさい」と言われていたので。

 

関西に行くと奄美の人がたくさんいて、美容師生活も楽しかったのですが、薬剤アレルギーで仕事ができなくなりました。

 

「最低5年間は都会で修業してこい」と送り出されたのに、格好つかなくてどうしようかなと思いながら荷物をまとめていたときに、レコード会社の方の名刺がはらりと出てきたんです。

 

今年2月にはデビュー20周年を迎え、記念日には事務所所属アーティストやスタッフからサプライズのお祝いが

それで、「うちまで来てくれたレコード会社の人、実在するか確かめてみよう」とふと思い立って名刺の番号に電話したら…。

 

当時は携帯じゃなくて会社の電話なので、誰が出るかもわかりませんでしたが、最初に出てくれたのが私の家まで来てくれた方だったんです!

 

本当はその気もなかったけれど、その方につながってしまったのでつい「音楽やってみたいなぁと思いまして…」って。

 

声をかけていただいてからもう2年も経っていたので「もう遅い」と言われると思ったんですけど、「それじゃ、すぐにおいで!」と言ってくださって。

 

これはもう進むしかない、と。一度、島に帰って両親と真剣に話し合いました。