野村克也さんインタビュー
ノムさんがボヤきながら答えてくれました
「サッチーに学ぶ、ダメな夫の監督法とは?」
「女性上位の国は栄える」
それが野村家のモットーだった
――奥さまの沙知代さんが亡くなられてからも、野村さんの元気なお姿をテレビなどで頻繁に見られて、なんだか少しホッとしています。
野村
相変わらず、どこでもボヤいてばかり、ですけどね(笑)。 そもそもサッチーから『あなたは死ぬまで働きなさい!』とよく言われていたんですよ。『人間は働いて脳を活性化させないと早く老け込むもの。だから働かないと駄目になる。これも内助の功。愛の言葉よ!』と(苦笑)。 そのおかげですね。何があろうと仕事をする、働くことが習慣になっている。実際、仕事があったほうが気がラクなんですよ。打ち込むことがあったほうが、サッチーがいなくなった寂しさも紛らわせられますから。
――今回、出版された『なにもできない夫が、妻を亡くしたら』という本では、そんなお二人のユニークで、参考にしたくなるようないいご関係がエピソードとともに語られています。基本的には、やっぱり沙知代さんが「強い」印象ですね。
野村
「女性上位の国は栄える」というでしょ? だから私は外では、いつも選手たちのふがいない試合をボヤいたり、厳しい言葉をかけたりしていましたけどね、家では完全にサッチーの支配下選手でしたよ。 思うに、弱い男ほど家に帰ってからいばりたがるものですよ。会社でペコペコしているくせに、家でふんぞりかえる。どうかと思いますね。 本質的に「自分の夫を悪いほうへ導いてやろう」なんていう奥さんはいないと思うんです。それなのに男性が、ムダに偉そうな態度をとったりするから女性が反発する。 だから、家に帰ったら男は、えらそうな態度なんてせず、ただただ奥さんにうっとりしていればいいんじゃないですか。
――なるほど。野村さんも、家に帰ると沙知代さんにうっとりされていたわけですね?
野村
……。
ネガティブなノムさんを支えた
たったひとつの言葉
――沙知代さんはいつも野村さんに「なんとかなるわよ!」と前向きな言葉をかけてくれて、その支えが大きかったそうですね?
野村
彼女は超がつくほどのポジティブ思考でしたからね。いっぽうの私はキャッチャーだったこともあり、良くも悪くもネガティブ思考なんですよ。「打たれたらどうしよう」「逆転されたらどうしよう」と常に考えてるところがある。プライベートでも」「うまくいかなかったらどうしよう」「失敗したらどうなるだろう」と、いつもクヨクヨ考える習性がある。 そんなときにサッチーに「なんとかなるわよ!」と言われると、不思議と「それもそうだな」と思えましたね。根拠なんてなくてもね。 決定的なのは現役の野球選手として南海ホークス(現ソフトバンク)をクビになった時でした。
――高校卒業以来ずっといたチームだったんですよね?
野村
ええ。私は‶野村―野球=ゼロ″だと思うほどに、野球しか知らないダメ男でしたから。『これからどうやって生きていこう…』と悩んでいた。けれど彼女はいつものように『大丈夫よ。なんとかなるわよ。東京に行きましょう!』と言ってくれた。 現に二人で東京に出た直後、おかげさまでロッテから声をかけられ、現役を続行できました。その後も解説者としてのポジションに恵まれた。その後はさらにまったく縁のなかったセ・リーグのチーム、ヤクルトや阪神、楽天などで監督をさせてもらえましたからね。
――沙知代さんのいうとおり「なんとかなった」わけですね。
野村
そう。まあ、考えてみたら、南海をクビになったのは、当時、まだ前妻と離婚していないのに、つきあっていた彼女のせいだったんですけどね(苦笑)。 まあ、奥さんは夫にウソでも前向きな言葉を、安心できる言葉をかけるのがいいんじゃないですか。男というのは単純だから。そういう人がいたら、勝手に奮闘しますよ。
ノムさん&サッチーの子育ては
申し訳ないほどの「放任主義」?
――そういった強いイメージがある沙知代さんですが、野村さんが仕事の不満などをボヤくときは、黙ってただただ話を聞いてくれた、というエピソードも印象的でした。
野村
ええ。そういうときは、とにかくこちらの抱えている思いを吐き出させてくれました。何かにつけて、沙知代が口出ししていたイメージがあるかもしれないけれど、違うんです。そもそも、キツそうに見えるけれど、中身は優しいところもあったんです。 ただ女性関係にはやたらと厳しかったですね。銀座の女性から営業電話がかかってきた履歴を見られ、私の携帯電話を折られたことがありますよ、5回ほど(苦笑)。 今はそんなボヤきを家でしても聞いてくれる彼女がいないのが辛いですね。まあ、息子(野村克則・現ヤクルトスワローズコーチ)夫婦が同じ敷地にいてくれるから、助かりますけどね。
――そういえば、監督と沙知代さんは克則さんの子育てはどんな方針でなされていたのでしょう?
野村
それに関してはサッチーは完全に放ったらかしでしたね。私は仕事で忙しかったでしょう。だから小さい頃は、知り合いの家をローテーションで泊まり歩いてもらい、克則はそこから学校へ行っていました。中学の頃は義理の妹の家に預けっぱなし。高校、大学は寮生活でしたから。
――放任すぎますね。
野村
よく育ちましたよ。克則が偉いね。俺の子だからでしょう。忍耐強くて我慢強い。いずれにしても参考になりません。子どもは放っておいても‶なんとかなる″ということですかね(笑)。
――『CHANTO』は働くママの方が多いのですが、最後に、何かメッセージをいただけますか?
野村
しつこいようですが「女性上位の国が栄える」を意識して、どんどん強くなるのがいいと思います。夫婦というバッテリーは、奥さん主導のほうが間違いなくうまくいきますよ。
取材・文/箱田高樹 撮影/亀和田良弘(本誌)
PROFILE 野村克也
1935年、京都府生まれ。歴代2位の通算657本塁打などプロ野球界を代表する捕手として活躍。引退後も4球団で監督を歴任。「ID野球」「野村再生工場」などと呼ばれ、輝かしい成績を残した。
『なにもできない夫が、妻を亡くしたら』野村克也著 PHP研究所刊
中華料理店での出会いから始まる馴れ初め。互いに決めていた‶野村家のルール″。沙知代さんの学歴詐称に関する愛情秘話――。おしどり夫婦だった野村克也元監督と沙知代夫人の二人の生活から、いい夫婦の育み方が見えてくる。