去年11月に99歳でこの世を去った作家で僧侶の瀬戸内寂聴さんの秘書を10年にわたって務めてきた秘書の瀬尾まなほさん。「女性は子どもを産んだら働けない」と言っていた寂聴さんに対して、瀬尾さんが取った行動とは──。晩年は泊まり込みもしていたというプライベート時間についても伺いました。
泊まり込みで身の回りの世話も…
──秘書としてどのような仕事をしてきたのですか。
瀬尾さん:
いわゆる秘書の仕事とイメージされる、スケジュール管理や締め切りなどの調整をはじめ、最後の方は身の回りや食事など、生活に関わることもしていました。食事も当番で作っていましたが、なるべく好きなものを食べてもらうようにしていました。和食より洋食が好きで、食べることが楽しみでもあったので、量は多くはないのですがお肉も必ず食べていましたね。
──「66歳差の秘書」として取り上げられることも多くありましたが、寂聴さんは年齢的には瀬尾さんの祖母くらいですか。
瀬尾さん:
年齢的に「おばあちゃんと孫」だと周りの方から言われることもありましたけど、話す内容も含めて私は一度もそう思ったことはないです。
祖母は80代なのですが、私の祖母に対する態度と瀬戸内に対する態度はまったく違います。
以前、雑誌の取材で瀬戸内が私のことを「親友」だと言ってくれたこともありましたけど、私のなかではずっと秘書と先生でした。でもそれは世間一般的な秘書ではなくて、私たちのなかでの関係で。身内のような家族のような、でもそれよりも強い絆があるように感じていました。
4か月で仕事復帰 寂聴さんの考えに変化が
──秘書になってから結婚、出産を経て今に至りますが、産休や育休などはどのくらい取ったのでしょうか。
瀬尾さん:
今2歳の長男が生まれるときに、予定日の3週間前に産休に入ったのですが、予定日よりもだいぶ早く産まれたので実質、取った産休は2日でした。産後は、4か月で仕事に復帰しました。復帰する前も月に何回も寂庵に行って、瀬戸内に息子の顔を見せに行っていました。
──早めに仕事に復帰したかったのはなぜですか。
瀬尾さん:
子どもがいても働けるという証明がしたかったのと、瀬戸内と離れることが心配で、不安だったのでできる限り早く復帰しようと思いました。
瀬戸内は昔の時代の人なので、妊娠する前から女性は子どもが生まれたら働けないという考えがありました。保育園に預けて仕事をするというのが頭になかったみたいで、「子どもを連れては働けないし、もう無理かな」と言われていたので、「私、子どもを産んだらクビにされるのかな…」と思って、妊娠7か月まで伝えられずにいました。でも妊娠を報告したときは喜んでくれて、生まれてからもとても可愛がってくれました。
──証明ができたわけですね。
瀬尾さん:
瀬戸内の子育てに関する感覚もだいぶ変わったようです。「子どもを産んでも働けるのね」というようになりましたし、これまで小さい子どもとふれ合う機会がなかったのですが、実際に生まれてみたら可愛いし、保育園に預けて日中仕事ができて、女性が働けるということをわかってもらえました。
──生後4か月での仕事復帰で、瀬尾さん自身に葛藤はありませんでしたか。
瀬尾さん:
最初は辛かったです。4か月で保育園に預けることに負い目も感じていました。実際、今もそれが良かったかどうかわかりません。ただ、体力的にはきついこともありますが、仕事をすることによって自分自身を取り戻せた感じはありました。
──寂聴さんは息子さんを溺愛していたそうですね。
瀬尾さん:
最後の方は夜の泊まり込みも交代でして、保育園が終わってから息子を連れて寂庵に行き、一緒に食事などもして泊まっていました。
何もできなかった赤ちゃんがハイハイをして、歩けるようになって、少しずつ物事がわかって意思を持って…という過程に好奇心を持って興味深く見ていました。「こんなことができるようになってすごいわ!もう自分の意志がしっかりあるんだよ!」と驚きながらも、面白く受け取っていましたね。
それと、私以上に息子のことを肯定していました。「この子は賢い」と、常に息子の可能性を見ていました。将来はノーベル賞を取るとか、舞台俳優になるとか色々なことを言って、いつも息子のことを褒めてくれていました。
──育児中の母親は心配のあまり、人と比べたり不安に思ったりする方もいますが、寂聴さんはお子さんのすべてを肯定していたのですね。
瀬尾さん:
瀬戸内には比べる対象もいませんし、目の前にいる息子だけがすべてでした。私と瀬戸内が息子の可愛さで盛り上がるとよく「これ、はたから見たら馬鹿だと思われるよね」と言い合いながら笑っていました。
──寂聴さんが亡くなられたときは第2子の妊娠中だったと伺いました。
瀬尾さん:
自分のことを気にする余地もないくらい忙しくしていました。お腹も大きくてしんどいときもあったのですが「これが秘書として最後の仕事だから、瀬戸内の顔に泥を塗らないようにしないと」と必死でした。
瀬戸内は次男が生まれたら「きっと妬くよ」と長男のことを言っていたんですが、実際はすごく可愛がってくれています。きっと保育園に小さい子がいるのを見ているからだと思います。瀬戸内の入院中に名前の候補をいくつか挙げていて、お互いに「これがいいね」と言っていた名前を次男につけました。
──寂聴さんのことをどのように息子さんに伝えたいですか。
瀬尾さん:
長男には、どれくらい瀬戸内に愛されていたかを教えてあげたいですし、次男は会えなかったけれど妊娠をとても喜んでくれていたということを伝えたいです。「私が死んだら子どものことを見守っているからね」と言ってくれていたので、きっと2人の成長を見てくれていると思いますし、子どもたちも明るい人生を歩めるんじゃないかなと思っています。
──ウクライナの情勢が連日ニュースになっていますが、寂聴さんが生きていたらなんというと思いますか。
瀬尾さん:
「世も末だね」というと思います。このような状況下でも唯一まだ良かったのは、瀬戸内がウクライナ紛争のことを知らずに亡くなったことです。もし知っていたら、どんなに胸を痛めていただろうと思います。国際的な問題が起きるたびに「こんなに可愛いチビたちもいずれ戦争に連れていかれるかもしれない」と常に危惧していました。
私自身も他人事ではないと感じています。大きく見ると戦争だけれど、学校で起きているいじめだとかそういうところにも目を向けて、子どもたちには思いやりの心を小さい頃から教えていきたいと思っています。
PROFILE 瀬尾まなほさん
1988年兵庫県生まれ。京都外国語大学英米語学専攻。大学卒業と同時に寂庵に就職。著書に『寂聴さんに教わったこと』、『#寂聴さん 秘書がつぶやく2人のヒミツ』など。困難を抱えた若い女性や少女たちを支援する「若草プロジェクト」理事。
取材・文/内橋明日香 写真提供/瀬尾まなほ