「もうお母さんなんだから」「ママになったら、子ども優先」。
子どもができると、私たちは自動的に「お母さん」や「ママ」と呼ばれるようになります。が、妊娠・出産を経た途端に、人は変わるものなのでしょうか?これまであった「私」はどこへ?
母になると直面するこの違和感について、「わがままを発信する重要性」を社会学として研究している富永京子さんに伺いました。
ママいじりされるのが怖かった
── 2022年1月、新聞の連載記事で、妊娠・出産を「秘匿」されていた旨を公表され、話題となりました。周囲の反応はいかがでしたか?
富永さん:
妊娠・出産のことは、宇宙で15人くらいにしか知らせていなかったので、驚かれましたね。
職場である大学には、福利厚生の関係で伝えていたのですが、あとはラジオ番組で共演している方たちに言ったくらいでしょうか。新聞記事で多くの人が知ってくださったというかたちです。
── なぜ子どもができたことを「秘匿」されようと思ったのでしょうか。
富永さん:
やはり自分が変わったと自覚することや、あまり適切な表現ではないかもしれませんが、「ママいじり」されるのが怖かったからですね。例えば「富永さんはお子さんがいるから忙しそうだし、この仕事依頼するのやめようか」みたいな反応があることは懸念しましたね。
特に私は社会運動の研究を本業としているわけで、研究の知見っていうのは本来誰が言っても変わらないはずなんですけど、同じ言説を読んでもらうにしても「富永さんはママだからこう言っているのね」と、受け手の感覚が変わることを、一研究者としてとても恐れていました。
その想いを、共同研究者の親しい友人に相談したんです。そうしたら「あなたが思っているほど、社会は富永さんを嫌いにならないよ」と、言われて。それがとても腑に落ちました。
確かに、今一緒に仕事をしている人たちのなかに、「今日は寝かしつけ終わってから来たんですか」みたいなママいじりをする人はいない。実際はこれからいるかもわかりませんけど、その時想像してみて、考える限りはいなかった。社会といっていいかはわからないけど、自分の周囲を信用していなかったな、恐れることじゃないな、と思うようになりました。
同様に、私の本業についても、関心を持って見聞きしてくださる方は、私的な変化に注目する人たちではないと思い至りました。
── ママいじりを恐れたのは、これまでにそういった光景を見聞きされていたからでしょうか。
富永さん:
ええ、そういう社会の眼差しにさらされている研究者はあんまり多くないとしても、パブリックで活動している人はかなり見てきました。近いところだとライターさんとかになるのかな。
彼女たちを見ていて「ママいじり」的な目線が社会には割と普遍化していると思えたのです。それを過剰に怖がったのかも。
「母」をアイデンティティにしてしまう違和感
富永さん:
以前、女性ミュージシャンに対して「最近は子どもも産んで、強い生命力を感じます」と締めくくる記事を目にしたことがありました。そういう言葉は、定型句のようにありますよね。
彼女は、確かに母になったけど、「母」になったことを知らなかったらそもそもそう書かなかったでしょ(笑)と感じました。なんていうか、「単純ですね」みたいな。
── 富永さんには、「母になったからといって、その人自体が変わるわけではない」という思いが強くあるということでしょうか?とはいえ、母になるのは大きな経験ですよね。
富永さん:
そうですね。実際こうやってインタビューを受けているわけで、こうしてお話しして考えを掘り下げる機会は出産を公表しなきゃ存在しなかったわけですから。
私が秘匿をやめたのは、公表して失うものもあるかもしれない、ただ得るものもなくはないだろうと感じたからでしょうか。育児による自身の心境の変化を、いつかラジオなど公共の場で、みなさんと共有したくなるし、言語化したくなるだろうと考えました。
でも、母になったからといって、私は変わらないよ、という思いは強くありますね。役割、業務は増えたけど、あくまで「増えた」というだけで。「変わった」ではないと思いたいです。
これは親族からなんですが、大学に職を得たときに「これで子どもさえいれば、全部持ってることになるよね」と言われたことがあります。
── それは結構、衝撃的ですね…。
富永さん:
今でも覚えているくらいですからね(笑)。「そんなふうに思われるくらいなら産みたくない」「産んでも産まなくても、お前の言う全部持ってなくても私は私だよ」と思いました。
理想の母親像はあまりない
── 富永さんにとって「理想の母親像」はありますか。
富永さん:
理想の母親像というものはあまりないですね。
社会運動をやっている人たちってあまり家族という固定観念にとらわれていないんです。そういう人たちと多く接してきたためか、「母親とはこういうもの」という感覚は特にありません。それは自分にとって救いだったかもしれない。
母親の責務だと思っていることといえば、生活に困らないお金や環境を整えるということくらいでしょうか。ただ、それだって日本における子育ての世帯負担が大きいからで、それができない状況にある人も当然いるわけですから、あくまでこの状況下で責務と考えざるを得ないなという感じです。
母親になるにあたって、自分が公で発言していることが子どもにどんな影響を与えるかは考えました。まあそんなに有名人でもないので自意識過剰なのかもしれないですけど、例えばネット検索して、私に関するいろいろな情報が出てきてしまうのはいかがなものかと。
── 富永さんの実績や活躍を知っても、お子さんが傷つくことはないと思いますが、どんな点が心配だったのでしょうか?
富永さん:
誹謗中傷とまでは言わないけど、知らない人にいろいろ書かれているだろうから。今、誰だってそういうことを書かれうるわけですけど、社会的な発言をして、公で仕事しているとそういうものは少なからずあるでしょうから。それを見て子どもが傷ついてしまわないか、心配になりました。
そのとき毎日新聞の小国綾子さんに言われたのが、「今の子どもは、誰もがデマで叩かれたり過度に称賛される時代だということをわかっている。第一に親が根も葉もないことを書かれているかどうか、それで叩かれているか否かは判別がつくはずだし、私は子どもを信じている」という言葉でした。
サイボウズの青野慶久さんとも交流させてもらっていますが、社会的な発言をされて、メディアにたくさん取り上げられている彼のような方でも、子どもの存在を堂々と公にしている。小国さんの言葉、青野さんの存在が不安を消してくれました。
ここでもやっぱり、もっと社会や子どもを信用していいんだなと思い直しました。例えばですけど、子どもがある程度物心ついてこの記事を見ても「この人は自分のことを隠したかったんだ」みたいなふうには思わないだろうって、それはなるべく信じたいですよね。
出産しても「個」はなくさない
── 育児に追われていると「自分の時間」はぐっと減りますよね。そのため「職場復帰をしたら、自分を取り戻した」という話もよく聞きます。
富永さん:
仕事って案外自分を形成している重要な部分だったんだなあというのは思いますよね。
私の場合もそうかもしれないです。学術雑誌に出した論文って基本的には匿名で査読(審査)されるものだし、誰が出しても良い研究は良い。論文が、私的な事情に寄らずに成立していることが、私にとって非常に重要だったかもしれない。そういう意味で、仕事って親ではない「個」に立ち返らせてくれるものだというのは分かります。
── 働く女性は、仕事と育児の両立に苦労しているのが実情です。「個」を失いたくないと思うことすらままならない。こうしたことを産前から意識していた富永さんは、仕事と育児をきっちり両立させている印象です。
富永さん:
現時点では両立というか、ほぼ仕事一本しか立てていないですよね(笑)。人の手は相当借りているし、かなりお世話になっています。任せられる部分は全部人に任せようって産前からずっと決めていました。それは「個を失いたくない」っていう執着が強かったからかもしれません。
ただ女性は産後も働くのが当たり前になっている今、私のような意識を持ちながら出産する女性は少なくないと思います。
仕事をしていない専業主婦の方でも、100%ママでなくていいと思います、当たり前だけど。誰でも「個」としての自分にこだわって全然いいわけで。「個」って仕事だけじゃないですよね。趣味を楽しむ自分も「個」です。
社会人としての自分、母としての自分、プライベートな友人といる自分、働く女性が増え、生き方も働き方も多様化しています。私自身も、今後は自分のなかにあるさまざまなアイデンティティをどう切り分けていくか、それともいかないのかという問題が、子どもの成長やキャリアの変化によって如実に出てくるかもしれません。
PROFILE 富永京子さん
1986年生まれ。日本学術振興会特別研究員などを経て、現在、立命館大学産業社会学部准教授。社会学的視角から、人々の生活における政治的側面、社会運動・政治活動の文化的側面を捉える。著書として『みんなの「わがまま」入門』(左右社)、『社会運動のサブカルチャー化』(せりか書房)、『社会運動と若者』(ナカニシヤ出版)。
取材・文/夏野久万 写真/河内彩