11年前の東日本大震災で、大きな被害を受けた福島県浪江町。海からほど近い場所にあり、多くの津波による犠牲者が生まれた請戸地区にある小学校が、昨年秋から震災遺構として公開が始まりました。

 

津波が到達した校舎は、柱などを残してほとんどが津波で押し流されましたが、当時校内にいた児童と教職員は全員が避難して無事でした。あのとき何が起きて、どんな行動が全員の命を救ったのか…当時を振り返りながら考えます。

絵本「請戸小学校物語」はこうして生まれた

2011年311日、浪江町では震度6強の地震を観測し、その後15.5メートルの津波が町を襲いました。町の震災による犠牲者182人のうち、沿岸部に位置する請戸地区の住民がその多くを占めています。

津波の被害を受けた請戸小学校の多目的スペース(2011年撮影)/浪江町提供

 

海岸からおよそ300メートルの場所にある請戸小学校には、校舎の2階の床部分まで津波が押し寄せました。

 

昨年10月から福島県内で初めてとなる震災遺構として一般公開が始まった請戸小学校の展示ルートには、絵本のページをパネルにしたものが設置されています。

請戸小学校に展示されているパネル(2021年撮影)/浪江町提供

 

パネルに使用されている絵本「請戸小学校物語 大平山をこえて」は、東京のNPO法人が制作しました。

 

早稲田大学の近くを拠点とし、中高年世代が中心となりOBが所属するNPO法人「団塊のノーブレス・オブリージュ」は、震災前から福島を訪れて地元の農家と交流していたそうです。事務局の田中大一さんは、震災後に団体として何ができるか模索していたといいます。

 

「それまで繋がりのあった農家の方から、農作物への風評被害があったり、経営が厳しくなったりしたことを伺いました。何か少しでも助けになることをしたいと思って、最初はWEBサイトを作って野菜を販売するなどしていました。

 

震災後、まもなくしてから実際に現地の状況を見に行って、団体として何かできることを探そうという話になり、NPOのメンバーとともに学生も一緒に行きました」

 

浪江町を訪れた一行は、現地の被害状況を視察するとともに、今どんな支援が必要か、地元の方や役場の方に話を伺ったそうです。

 

「当時、話をしてくださった浪江町の副町長さんが、被災した事実を風化させないでほしいとおっしゃっていました。地元の人は起きた事実がいつの間にか消えてしまうのは嘆き悲しいことだと思っていますと。そこで、現状を後世の人たちに伝えていくことができないかという話が持ち上がりました。

 

一緒に行った早稲田大学の学生が、『私、絵本の文を書くので絵本を作りませんか』と言ったんです。武蔵野美術大学の学生がそれに絵をつけることができると。こうして団体として絵本の制作に取り組むことになったんです。物的支援も大切な一方で、東京のNPOでできること、力になれることを考えました」

 

絵本を制作するにあたって地元の方に聞き取りを行うなかで、多くの方から請戸小学校の話を聞いたといいます。

 

「児童全員が助かったという事実にとてもインパクトがありまして。絵本なので、ストーリーがあると、記憶に残ると思ったんです。

「請戸小学校物語 大平山をこえて」

 

被災した方々はどういう状況にあって、どう対応したか。伝える順番は考えましたが、起きた事実をシンプルに載せることで、読者の方それぞれに何らかの学びや得るものがあればいいなと思っています。

 

災害はいつなんどき、誰にでも起こり得ることなので、皆さんの身に置き換えていただいて、普段から意識の面でも備えをしておくことが大切だと思っています。私たちも現地の方のヒアリングを通して、普段から防災への意識があったのではないかと思うことがたくさんありました」

先頭に立って避難した先生が語る 請戸小で起きていた数々の奇跡

あの日、全員が助かった背景には何があったのか…絵本「請戸小学校物語 大平山をこえて」とともに、振り返ります。

 

当時、校内には帰宅していた1年生をのぞく2年生から6年生までの児童82人と、教職員13人のあわせて95人がいました。

 

3年生の担任をしていた武内雅人さんは5校時目の授業を終えて、帰りの会を始めようとした矢先に今まで経験したことのない大きな揺れを感じたと話します。

請戸小学校の子どもたちと武内さん(写真右上)/ご本人提供

 

「地震だ、と思っていたらだんだん揺れが大きくなってきました。避難訓練もしていたので子どもたちは自主的に机の下に隠れました。私は、揺れが収まったら外に避難しようと思っていました。

 

そのあとはまず全学年が校庭に避難しました。3年生の教室は1階の東側でしたので、すぐに校庭に出ることができました。校舎から一番遠い西側へ向かって、校庭を端から端まで走りました」

 

武内さんや児童が校庭で待機している間に、校長などがいったん校舎へ戻ったといいます。

 

「管理職の先生が、職員室にあるテレビで大津波警報が出たことを知りました。校舎は地震の影響で停電していたのですが、少し前にソーラーパネルがたまたま設置されていたことで、奇跡的にテレビの電源が生きていて。情報を得ることができたそうです。

 

津波は7メートルだという報道がありました。本来、校庭の次の2次避難先は2階の西側の音楽室でした。ただ、学校が海から近く津波の高さもあると知り、音楽室では津波が到達してしまうのではないかという判断があり。大平山に避難するよう指示がありました。

 

請戸小学校は屋根が三角形で、屋上がないんです。屋上への避難ができないので、3次避難場所は大平山というのが元から決まっていました」

請戸小学校(2011年撮影)/浪江町提供

6年生が泣いてしまった子の手を引いていた」一丸となり走って避難した大平山

請戸小学校から西におよそ2キロのところにある大平山への避難は、教職員の中で一番若く、保健体育が専門の武内先生が途中から先頭を走りました。

 

「はじめは6年生から順番に一列になって避難を始めました。私も後ろを振り返りながら走っていたのですが、足が速い子が前に来て、走るのが苦手な子は先頭との差が開いてきてしまって。

 

6年生が面倒を見て、低学年の子の手を引いてくれました。

 

泣いてしまっていた子もいたのですが、その子の横について一緒に走ってくれている子どももいました。

 

避難している最中にも余震がかなりありまして、道路と縁石の間が地割れしていたんです。今まで見たことがない現象が起きていて、恐怖を感じて泣いてしまったんだと思います。

 

子どもたちは着の身着のまま、足元は上履きでした。その日、日中はとても天気が良かったんですが、地震のあとに天気が急変して、途中で雪も降ってきました。この辺りは雪が多い地域ではないので驚きました。寒かったのですが上着もありませんでした」

 

山を登ろうとしていたとき、ある男子児童が武内さんに声を掛けにきたといいます。

 

4年生で野球のスポ少に入っていた子が、山のだいぶ手前のところで『先生、ここから山に入れるよ、練習で来た事がある』と言ったんです。

 

私はその道を知らなかったので『本当に入れるのか』と聞いたら『入れる』というんで、そこから登って行きました。その子の担任をしたことはなかったのですが、学年の垣根がなく私もどういう子がよく知っていたので、彼を信じてすぐに受け入れました」

 

本来の避難ルートは、山の外側を回る形で頂上を目指すものでしたが、武内さんは男子児童から聞いた道を通ることで1015分ほど、避難場所に到着するまでの時間を短縮できたといいます。

 

「山のちょうど真ん中あたりを登っている時に、ゴーっという音が聞こえてきました。木々の茂みで町の様子は見えなかったので、その時の音が津波の音だと分かったのは、のちに町の様子を確認しに行った時でした」

 

後々考えると本来のルートで登っていたら、私たち先頭は大丈夫だったかもしれないけれど、もしかしたら後ろの子たちや、私たちの列に続いて地元の方も来ていたので、間に合わなかった人も出てきてしまったのではないかと思います。

 

避難場所に到着して、子どもたちの人数確認ができてから、私ともう一人の先生で町の様子を伺うために来た道を戻ったのですが、山のふもとのところまで津波の水が来ていました。町は一部の屋根しか見えない状態で、一面が海になっているかのようでした。このとき、もうここには戻れないと思いました。でも子どもたちにはまだこの事実を伝えずにいました」

大型トラックの荷台に乗って町の避難所を目指す

武内さんたちが町の様子を見に行ったのと同時に、別の教職員や一緒に避難していた地元の方がさらに遠くへと避難すべく、国道6号線が通っている山の反対側へ抜ける道を探し出しました。その後、全員で大平山を降りて避難を続けたそうです。

 

「国道6号線に出たところで避難誘導をしていた役場の方と出会いました。このとき、子どもたちを避難させるために、町のバスが私たちのところに向かっていたそうなんですが、連絡を取れる手段が何もなくて。

 

後から聞いたのですが、バスは大平山の当初の避難場所に行っていたそうで、入れ違いになっていました。

 

ここからどうしようと思っていた矢先に、一台大きなトラックが止まってくれました。大きな荷台がついていて、運転手の方が乗せてくれると言ったんです。荷台には荷物もなくて、私たち教員と児童に加えて地元の方数名の100人程度をいっぺんに乗せて役場へと連れて行ってくれました」

地震、津波、原子力発電所の事故…バラバラになった子どもたち

先に帰宅していた1年生を含めて、請戸小学校の児童と教職員は全員無事に助かりましたが、子どもたちの家族の中では亡くなった方がたくさんいたといいます。

 

「当日、町の中学校が卒業式で、そのあと早めに家に帰ってきていたごきょうだいが亡くなった子もいました。ご両親が亡くなってしまった子や、祖父母が亡くなってしまった子もいます。次の日の朝に原発事故の影響で避難指示が出たことを知ったのですが、そこからバラバラに避難することになってしまいました。

 

私も母の実家がある檜枝岐村に避難したのですが、これから子どもたちとどう連絡を取ったらいいかわからず、ずっとみんなどうしているだろうと思っていました。ネットで浪江町の被災者掲示板を見つけまして、具体的に知っている名前も何人か書いてあったので、ここならば大丈夫かと思って、私の名前と新しい携帯番号、メールアドレスを載せました。“何年生でもいいので、見たら連絡ください”と。

 

すると結構、連絡が来まして、それぞれの学年の先生と情報を共有していました。掲示板を見て連絡して来た子もいれば、友達同士で繋がって連絡をくれた子もいました。地道な情報収集作業ですが、3月中にほとんどの子どもたちと連絡がつきました」

 

子どもたちはそれぞれ、県内外の避難先で学校生活を送ることになりました。武内さんはその年の4月から別の小学校に赴任したそうですが、請戸小学校の子どもたちから進学の相談を受けたり、新しく通う学校への引き継ぎなどを行ったりしていたそうです。

 

「新しい学校に赴任したのですが、そこは原発の避難区域になっていてほとんどの子どもたちが県内外に避難していました。授業を行える状況には到底なく、しばらくはまだお会いしたことがない子どもや親御さんに電話をするなどして、今後戻ってくる意思はあるかなどの意向調査をしていましたね。新しく赴任した小学校の業務をしながらも、ずっと請戸小の子どもたちはどうしているかなと思っていました」

震災から半年後の請戸小学校の姿

武内さんは、震災から半年ほど経ってから、浪江町の一時立ち入りに同行して津波の被害を受けた小学校を訪れたといいます。

 

「請戸地区に降り立った時に、何もなくなってしまったと思いました。当時は瓦礫もそのままで、震災前の町並みとはまったく違っていて家もありません。小学校と体育館だけがぽつんと立っているという印象でした。

 

当時担任していた1階の3年生の教室を見たのですが、黒板もなかったですし廊下との間の壁もなくて、ほとんどのものがなくなっていました。とにかくよく全員助かったと思いました」

請戸小学校の昇降口(2011年撮影)/浪江町提供

 

津波の被害を受けた校舎を訪れた武内さんは、子どもたちと過ごした日々を思い返したそうです。

 

「全学年ひとクラスずつで大きな規模の学校ではありませんが、縦の繋がりが多くて。給食はランチルームという部屋で、毎日全校児童が一緒に食べていました。

 

6年生はやっぱりいっぱい食べるね!』などと言いながら、楽しい時間でした。全校生で何かをするということが多かったので、私たち教員も、すべての学年の子の顔と名前が一致しましたし、どんな子かも把握できていたと思います。

請戸小学校の子どもたちと武内さん/ご本人提供

 

1学期の最後に行う砂の芸術という活動が印象的でした。全学年混合で班を作り、それぞれテーマを決めて海岸の砂で作品を作って、教員が審査をするんです。

 

先生同士も頻繁に情報交換をしていて、誰と誰が仲がいいというのも子どもたちが帰った放課後に共有していました。縦の繋がりも横の繋がりも非常にあった小学校でした」

「力を合わせたら救える命がある」

武内さんは、全員が無事に避難できた理由について、こう考えています。

 

「あの時、無事に避難できたのは、垣根がない学校だったからだと思っています。集団で活動している以上、何か有事の際にはまとまることが大事だと思うんです。

 

今は地域のつながりが薄くなっていると言われますが、一人ではできないことでも周りの方と力を合わせて協力することでできることがあるし、これだけの命を救うことができるのだと学びました。

 

6年生の担任の先生は、避難をする際に『下の子の面倒を見なさいとは言っていなかった』とおっしゃっていました。避難の際に子どもたちが助け合っていたのも、みんな自分で状況を判断して、行動に移していたんだと思います。

 

子どもたちを心配して迎えにきた親もたくさんいたそうなんですが、基本的に途中で引き渡しをしないで、私たち教員が連れて行くので、町の避難場所になっている役場で引き渡しをします、まずはみなさんとにかく早く避難しましょうということを徹底したそうです。

 

何か避難が必要な場合には、どこに避難するかの目的場所を共有して、それを全員が事前に知っておくことが大事だと思います」

 

絵本「請戸小学校物語」は、“あなたにとっての大平山はどこですか。”との一文で物語を締めくくっています。

訪れた人がメッセージを書き残していった請戸小学校の黒板(2021年撮影)/浪江町提供

 

子どもたち全員の命が助かった請戸小学校であの日起きていたことには、奇跡も偶然もありましたが、日々の生活で築き上げた子どもたちとの関係が避難の際に大きな役割を果たしていたと感じました。

 

備えること、正しく避難すること、身近な人と築く信頼関係…。いつ起きるかわからないその時に、どんな行動を取るかを私たちひとりひとりが考えていかねばなりません。

取材・文/内橋明日香

絵本「請戸小学校物語」/NPO法人「団塊のノーブレス・オブリージュ」提供