「3年後、28歳で起業したい。14歳で被災して母親がいなくなって、そこからちょうど同じ14年間だから。14歳のときは意図せず震災でターニングポイントがきてしまったけれど、28歳のときは自分でターニングポイントを起こしにいこうと思います」

 

そう話すのは、東日本大震災で母親を亡くした大槻綾香さん(25)。当時、中学2年生で、宮城県石巻市に両親と弟、祖父母と暮らしていました。震災で環境が一変する中でも、変わらなかったのは、幼い頃から母と料理をした思い出。そしてパティシエの夢でした。

 

高校卒業後、製菓の専門学校を出て、埼玉県でパティシエとして、働き始めました。

 

心理学も複数の大学の通信課程で学び、前に進もうとする大槻さん。「人のせいにはしない」「自分で決める」などしっかりした考えを持つ一方で「こんなに長く生きるとは思わなかった。意外とまだ生きているなって思う」と今を振り返る気持ちも。

 

大槻さんにとっての震災11年目の思いを聞きました。

大槻さんが仕上げたケーキと大槻さん

お母さんに、お弁当の中にトマトを入れられたくなくて

パティシエの夢はお母さんとのお菓子作りの記憶が原点でした。

 

大槻さんが台所に立った始まりは小学校入学前。お母さんにお弁当にトマトを入れて欲しくなくて、自分でお弁当を作り始めました。

 

冷凍食品を入れたり、卵焼きを作ったり。包丁も持たせてもらっていました。

 

「自分でやりたい気持ちが強い子でしたね」

 

小学生になる頃には、お菓子作りも身近なものになっていました。休みの日には、友達を自宅に呼んで母親と一緒にホットケーキを作ってふるまっていたそうです。

 

「お母さんとの会話は料理のことばかり。キッチンでケンカしながら作っていたという記憶がすごく残っています。

 

『私はこうしたいのにさせてくれないのか』。そんな言い合いを含めて、コミュニケーションだったなあと思います」

 

記憶の中に残っているお母さんは、くまのプリントがされた赤いエプロン姿。料理をしていた後ろ姿が記憶に残っているそうです。

 

「顔はもうモヤがかかったみたいに思いだせないけれど、今、写真を見返すと『笑った顔が自分とそっくりだな』と思います」

震災から1か月後に母の遺体が見つかった

あの日のことを思い出すこともあるそうです。

 

「私は東日本大震災のとき、中学校の校舎内で外の世界を見ないでとどまっていたので、津波は見ていません。次の日に街を歩いて、流された実家があった場所を歩いて、ああ、こんな状況なんだとわかりました。

 

祖父母は当時不在で、弟は近所の人に助けられたようですが、詳しいことは聞いてません。当初、避難所に行っても、母親の話だけ何も出てこなくて、どこかで見たという噂もないから、いないのかなって気持ちはなんとなくありました。

 

1か月後ぐらいに遺体で見つかって。割と近くで見つかったんです。目視では母親とわからない状況だったそうですが、結婚指輪をしていて、母だとわかったと父が言っていました。

 

私は火葬されて遺骨になったときに骨だけ見たけれど、母親という実感はまったく湧かなかったですね」

 

その後、よく母親が夢に出てくるようになったといいます。

 

「母親の実家が南三陸にあって、そこにいるのではないかと思うことも。夢の中で母を迎えにいくシーンがたびたび出てきました。

 

でも起きると、夢だと自覚させられます。

 

夢ってしんどいですよね。目が覚めた時に、現実に戻される。夢でまで、しんどい思いはさせないでほしいと思いました」

支えてくれたのはあしなが育英会で出会った仲間

翌年、中学3年の11月、アニメのキャラクターが来るイベントがあると聞き、震災孤児・遺児を支援するあしなが育英会の集まりに参加したのが、あしなが育英会との出会いでした。

 

あしなが育英会は病気や災害などで親を亡くした子供たちを支える民間非営利団体。東北3か所にレインボーハウスという震災孤児・遺児が通える施設を設置し、子供達と保護者の支援を続けています。

 

「行ってみたら、こんなに子供がいっぱいいるんだと思って驚きました。震災の体験をベラベラしゃべるわけではないけれど、ちょっとしゃべりたい時は聞いてくれる大学生とかがいて。居心地がよくて、行けるときは行くようになりました」

あしなが育英会の「つどい」に参加する大槻さん(写真右から3番目・写真提供 あしなが育英会)

そこで出会った支援者に「あなたは大学にも行った方がいいよ」と勧められ、自分自身も学びたいと思うようになったという大槻さん。製菓の専門学校を出た後は、複数の大学や大学院の通信教育課程などでグリーフケアや死生学などを学んだそうです。

 

「亡くなった事実は変わらないけれど、それを心の中でどれぐらいの大きさで置いておくのかを学びました。亡くなった人のことを話すのも自分のグリーフケアになります。亡くなった人と繋がれる時間でもあるので、それはすごく大事なことだと思います」

 

11年の間、いつの間にか、出会う人は増え、少しずつ母を迎えに行く夢を見る頻度は減っていたそうです。

働く店のケーキを持つ大槻さん

今は、どんな自分も好きでいられる

「震災当時は想像できなかったけれど、意外とまだ生きているな」

 

大槻さんはそんな風に今を振り返ります。

 

「本当はもっと早く死ぬんじゃないかと思っていました。心労がたたって動けなくなったり、お菓子の道にもいけないんじゃないかと思ったりしていました。

 

でも11年経ってみて、意外と未来のことも考えられているから、すごく視界が開けたなと思います」

 

最近は心境にも変化が生じてきたそう。子供の頃からのパティシエの夢を叶えようと製菓の専門学校を出て、レストランで実際にパティシエとして働く中で、違う夢が見つかったといいます。これから取り組みたいことは「教育」と「起業」。

 

「発酵の仕組みなどもそうですが、お菓子は化学でできている職業だと思っています。お菓子作りの体験をしながら、勉強を教えるのもいいかなと思って」

 

お菓子を通して、勉強を子供達に教える活動で起業したいと、今は新たな通信制の大学で経営を学び始めました。

 

また、お世話になったあしなが育英会でも、子供たちを支援するファシリテーターになり、今度は子供たちを支える側に回りたいと考えているそうです。

店頭に立つ大槻さん

 

震災直後は亡きお母さんの夢に苦しんでいた大槻さんですが、最近は感情をコントロールできるようにもなったそうです。

 

「あんまりマイナスなことを思わなくなりました。考えすぎると、自分が辛くなるじゃないですか。客観的に自分をみて、そんな辛いことを自分にさせたくないと思って。

 

考えすぎたら他のことをして、自分をコントロールして、自分のやりたいことをするというのができるようになってきました」

 

自転車でパティシエのアルバイト先から10分ほどかけて帰る時、起業する会社の名前など考えて、胸を膨らませます。

 

「変化に貪欲に生きたいですね。きっと、どんな自分も好きでいられると思います」

取材・文・撮影/天野佳代子