はるな愛さん
はるなさんがこども食堂を開いていた鉄板焼き店「大三」(だいざん)で

1991年に性別適合手術を受け、いわゆる“ニューハーフタレント”として活躍してきたはるな愛さん(49)。2009年には、トランスジェンダーの美を競う「ミス・インターナショナル・クイーン」で世界一になり、最近は「LGBTQ」や「性的少数者」に関連した講演依頼も多いそうです。東京パラリンピックでも、華麗なダンスを披露したはるなさんは、恵まれない子どもだけではなく、性的少数者や障がい者への眼差しも温かいです。

ミスコンで優勝したけれど…

── はるなさんといえば、性的少数者への意識も強いですよね?

 

はるなさん:

タイで開かれ、私が優勝した「ミス・インターナショナル・クイーン」の出場者たちと食事をしていたときでした。

 

アジアの国の子が、“私の国では差別されてばかり、こんなに自由なタイがうらやましい”と泣く姿を見て、まだトランスジェンダーについて理解がない国や人たちがいることを痛感しましたね。

イジメが始まった中学校時代のはるな愛さん
イジメが始まった中学時代のはるなさん

── はるなさんも子どものころは、イジメがひどかったそうですね?

 

はるなさん:

小さいころから“女の子になりたい”という願望はありましたが、誰にも打ち明けることができずに悶々としていました。

 

中学に入ったころから“男らしくしない”と、いじめられるようになりました。

 

掃除用具箱に閉じ込められ、横に倒されてゴロゴロ転がされたこともありましたね。

 

いじめはどんどんエスカレートして、“生きていてもしょうがない”と思うようにもなりました。

 

壁に頭を打ち付けたり、走るトラックをめがけて歩道橋から飛び降りようとしたり…。

ブルーの衣装でパラリンピックの開会式に臨んだはるな愛さん
ブルーの衣装でパラリンピックの開会式に臨んだ

── 性的少数者への偏見や差別をどのように解消していこうと思いましたか?

 

はるなさん:

私のような人間がさらに活躍をすれば、理不尽な状況は変わっていくのではと思い、タイで優勝した後も、毎月のようにニューヨークへ歌やダンスのレッスンに通い、準備を進めていました。

 

そんなときに東京五輪が開かれることになり、チャンスだと思いパラリンピックのオープニング出演に自分で応募しました。

弟が車いす生活を送っているので…

── はるなさんのパフォーマンスは好評でしたが、パラリンピックに思い入れがあったのですか?

 

はるなさん:

弟が車いす生活を送っていることもあります。8年くらい前に脳梗塞で倒れて、一緒に暮らすことも検討したほどでした。

 

そんな弟と旅行に行ったときに、障がい者用のトイレやスロープが少ないことに気づき、障がい者もまだ社会から取り残されているなと思いました。

 

性的少数者への差別をなくしたいし、弟のような障がい者と日常を一緒に生きていきたい。

 

世の中が五輪とパラを一緒に開催できるような、多様な世界に変わればいいなと思いました。

 

そういう意味では、パラリンピックのリハーサルのときは理想的でしたね。

 

聴覚障がい者が“私は耳が不自由だから”、視覚障がい者が“自分は目が見えないから”と、お互いに遠慮なく言いあい、助け合っていましたから。

子ども食堂を開いていた鉄板焼き店「大三」(だいざん)で語るはるな愛さん

言葉で少数者を区分するのは窮屈

── これからの性的少数者のあり方は、どう考えていますか?

 

はるなさん:

いずれ「LGBTQ」という言葉も、過去のものになればと思っています。

 

確かにそれらの言葉によって、性的少数者への理解が深まり、安心を得られた当事者もいたと思います。

 

ただ、この単語のみで少数者を区分するのは窮屈かなとも思います。

 

私自身、いわゆる男っぽい感情になる日もありますし、コロナ禍では女性のパートナーがいてもいいかなと思ったこともありました。

 

そんな記号や区分ではなく、「その人は、その人」、「はるな愛は、はるな愛」として見られる日が来ればと思っています。

 

PROFILE はるな愛さん

1972年大阪府生まれ。2009年「ミス・インターナショナル・クイーン」優勝。’10年「24時間テレビ」のマラソンランナーに。‘21年東京パラリンピック開会式出演。タレント、ボランティア活動の他に、東京都内で飲食店を3店舗経営。

取材・文・写真/CHANTO WEB NEWS 写真提供/はるな愛