「俺ここ、恋ができる町にするから」
東日本大震災により工場が津波で全て流されてしまった宮城県女川町の蒲鉾店の社長が当時、言っていた言葉です。
あれから11年が経ち「描いていたものが今、そのまま現実になっている」と話すのは、TOKYO FMのラジオパーソナリティーをつとめるフリーアナウンサーの高橋万里恵さん。
震災後から東北に足を運び続けた高橋さんが見てきた被災地の姿と、正しい風化の形とは。
東京で被災したあの日と、半年経った被災地で見た光景
「高い場所にも荷物が積んである店内だったので、ものすごい恐怖を感じたのを覚えています」
東日本大震災の当日は、都内で買い物をしていたという高橋さん。体験したことのない大きな揺れに、当初は関東大震災が起きたのだと思ったそうです。
「慌てて店の外に飛び出しました。近くにあった車のディーラーさんが避難をさせてくださり。そこで流れていたテレビを見て、この地震が東北で起きたことを知りました。関東でこれだけ揺れたのであれば、震源地の東北は一体どうなってしまったんだろうと…とにかく不安でいっぱいでした」
被災地の現状が気になりながらも、日常を取り戻しつつある東京で生活を送る高橋さんは、報道から情報を得ることしかできなかったそうです。
そんな生活がおよそ半年続いたのち、転機が訪れます。TOKYO FMの被災地を応援する番組「LOVE & HOPE」のパーソナリティに就任し、被災地を取材することになったのです。
「初めて訪れたのは岩手県大槌町でした。東京から新幹線で約3時間の距離ですが、たった数時間でこんなに景色が変わるのかと驚きました。原型を留めない車が並んでいたり、津波被害を受けた小学校や役所を訪れると、津波があった時刻で止まったままの時計があったり。まだ瓦礫や泥から漂う生臭いにおいも残っていました。
沿岸部では、土台しか残っていない家々や遺留品を探していらっしゃる方が目に入ってきました。東京とこんなにも差があるのかと衝撃を受けたことを覚えています」
マイクを向けられない…葛藤しながら取材を続けた日々
今回の取材を受けるにあたり、高橋さんは当時つけていた取材日記を読み返したそうです。ページをめくるたびに、今では少し忘れていた当時の悩みや葛藤がよみがえってきたといいます。
「被災地に入った直後の日記には“マイクを向けられない”と書いてありました。被害に遭われた方にお話を聞くのが私の仕事です。でも、当時『ご家族は大丈夫でしたか』というひと言をなかなか聞けずにいました。大変な思いをされている方をさらに追い詰めているのではないかと思い、“もう私は行きたくない”ということが、たくさん書いてありました。
私はもともと日記をまめにつけるとか、そういうタイプじゃないんです。
でも、被災地から3時間、新幹線に乗れば東京の日常に戻ってきてしまうことが耐えられなかったのだと思います。東京では水も普通に出るし、家族もいる。さっきインタビューした方は大変な思いをして耐えているのに、私はもう普通の生活に戻ってきてしまったと。
そのギャップをどう消化したらいいのか、ずっと考えていました。
実際は日常生活を送ることも困難な現実があるのに、震災から日が経つにつれて被災地の報道がどんどん少なくなっているのも感じて、悩んでいたのを覚えています」
「話してくれるのは伝えたいことがあるから」取材を続ける決意
自身の立場から被災地報道にどう向き合うべきか、葛藤を抱えていた高橋さんですが、取材を続けることを決意したある出来事があります。
「大槌町の仮設住宅に取材に行かせていただいたときです。部屋のなかに真新しい仏壇が置いてありました。お線香の香りが漂い、写真も飾ってあって。お写真が誰なのか、聞かなきゃいけないなと思ったんですけど、その言葉を出すまでにとても時間がかかってしまいました。
大槌町というのは10人に1人が津波の被害で亡くなっている地域です。仏壇に飾ってある写真はその方のお母様で、でもまだ見つかっていないので探しているとのことでした。
お話を伺って「亡くなってしまった命を無駄にしたくない」とおっしゃっていたのが印象に残っていて。半年が経ってこの方はそういう気持ちができているのだというのが伝わって来たんです。
自分が怖いとか悲しいとかじゃなくて、これは聞かなきゃいけないし伝えなきゃいけない。
それまでは正直、被災地に行くのが怖かったのですが、そこでようやく私の中で決意ができたと思います」
被災地で出会ったたくさんの宝物
宮城県南三陸町の志津川地区にある中学校で行われた卒業式も、高橋さんが今でも忘れられない取材のひとつです。
「ここに通う子どもたちは保育園からずっと一緒なんです。地域みんなで子育てしている感じがあり、親御さんは子どもたちみんなのことを、自分の子どものように思っています。
当時、卒業式が行われた学年には、ひとりだけ津波で亡くなった子がいました。
その子の名前が呼ばれると全員が返事をし、『ひと言どうぞ』と言われたお母さんが『みんな、いがったね(よかったね)』とおっしゃって。
その『いがったね』に全部が込められていると思ったんです。
みんな無事にここまで生きてこられてよかったねもあるし、これからの将来も生きていたらもっといろんなことを叶えらえるよというのをすべて含めた言葉なのかなと。
人の子どもの幸せを我が子のことのように喜べるお母さんの姿を見たら、自分の卒業式でもこんなに泣いたことがなかったのに、涙が止まりませんでした。
すごくいい文化がここにはあると思って、こんなに素敵な場所はなくしちゃいけないし、多くの方に知ってもらいたい。この子たちとは今も交流があるのですが、もう大学や専門学校などを卒業していて、何人も地元に戻って来ていますよ。地元のいいところを知っているから戻ってくるんでしょうね」
こうした取材の経験が重なり、高橋さんは次第にプライベートでも被災地に足を運ぶことが増えていきました。
「最初はボランティアとしての訪問でした。泥かきなどは人手が必要なのですが、泥って本当に重たくて。普段運動もしていない私が行くとかえって迷惑をかけてしまいます。何か役に立てることはないかと考え、沿岸部で見つかった泥がかぶっている写真をきれいに洗って展示をし、被災した方に届けるための活動をしていました。
被災地に足を運び続ける理由について高橋さんは、多くの忘れられない出会いがあるからだと話します。
「復興が進んでからも自然に足が向くようになったのは、会いたい人がいるからなんです。更地になった地域で、『こういう町にする、子どもにこういう場所を残したい』とおっしゃる方にたくさん出会いました。
宮城県女川町で、工場などが全部津波で流されてしまった蒲鉾店の社長さんが『俺ここ、恋ができる町にするから』と目をキラキラさせておっしゃっていました。その話を聞いたときは正直、何もなくなってしまったこの町でできるのかな…と思っていたんです。でもそこから10年経って女川町に行くと、若いカップルがたくさんいるんですよ。
あのとき、描いていたものがそのまま現実になっていて、こんなにすごいパワーを持っている方に人生でなかなか出会えないと思うんです。よく被災地に行くと逆にパワーをもらえるといいますが、本当にその通りです。
漁師さんや水産加工の方々と、コロナ禍前は朝まで語り合いながら飲んでいました(笑)。それが本当に楽しかったです。自分の生まれ育った町に誇りを持っている姿は、ずっと東京で生きている私にとってはすごく新鮮ですし、こちらが元気になれるんです。
地元の方々が当たり前に見ている景色や、当たり前に食べているものや人の絆は、私からしたらすごい!と感じることがたくさんあります。地元の方からは『そんなの普通だべ』っていつも言われるのですが、本当にたくさんの宝物があります」
「いい意味でよそ者を受け入れる耐性がある」
東北の土地柄や人に魅力を感じて足を運ぶようになった高橋さんは、その後、被災地に移住した方に焦点を当てた番組も担当します。取材を通して、被災地には移住しやすい理由があることが見えてきたそう。
「移住されるは若い方のIターンが多いです。移住した理由を聞くと『そんなにびっくりすることですか』って言うんですよ。
被災地の復興のためとか、この街を元気にしたいという言葉が返ってくるのかなと思ってマイクを向けるんですけど、出てくる言葉は、この土地と人が好きで魅力を感じたからという、すごくシンプルな理由でした。
福島に移住された方だと『自然も多いし、果物も美味しいし、人も優しい。東京からのアクセスも良くて、新幹線ですぐなので』という方が多いですね。
福島県飯舘村に移住した女性を取材したのですが、廃墟になった店舗をギャラリーにするとおっしゃっていました。正直、見た感じは本当に廃墟なんです。でも、彼女は『ここにおじいちゃんおばあちゃんが集まれるようにおしゃれなカフェを作って、子どもたちもワークショップができるような空間を作るんです』と。
東京にずっと住んでいた方なのですが、「別に東京はいつでも行けますしね」と言っていて、ものすごくフレキシブルなんです。被災地は復興関連で外からの人の出入りが多かったのもあって、耐性ができているんですよね。いわゆる田舎のよそ者扱いがないそうで、これまで取材したなかで、人間関係で困ったという方は誰もいらっしゃらなかったです。
おじいちゃんおばあちゃんともすぐ仲良くなれるのがいいところだとおっしゃっていました。それは被災地の魅力だと思います。コロナ禍で仕事の形式が変わったのもあって、今はより移住をしやすくなっているのかなと感じます」
震災から11年目に思う“正しい風化の形”
震災から時間が経つにつれて、高橋さんは風化について考えることが増えました。
「福島県相馬市で、津波と原発事故の影響で避難が必要だったご夫婦に出会いました。お子様2人と、お父様お母様を津波で亡くされて。当時、奥様は3人目のお子さんを身籠もっていらっしゃいまして、沿岸部でご家族を探していらっしゃるときに出会いました。
『悲しい出来事、あの日あった辛い出来事は俺らが覚えているから。でも、ここで失われた命がもしかしたら救えたかもしれない。その教訓だけは忘れちゃいけない』とおっしゃっていたのが心に残っています。
風化ってすごく考えさせられるんですよね。でも何でしちゃいけないんだろうって考えるんです。悲しいことを忘れてほしくないと思うけど、日常で生活している方に忘れないでくださいというのも何か違うと思うんです。風化ってなんだろうとずっと思っていました。
日本は、地震だけではなく台風などの災害もたくさんあります。そのときもこの方は、『なんで逃げねぇんだ。警報、出てたじゃねぇか』とすごく辛そうな表情でおっしゃるんです。それを見ると、ほかの地域で災害が起きて命が失われるたびに被災地の方はもう1度傷ついてしまうことがわかったんです。
あの日、津波が来るまでに沿岸部に戻ってしまった方もいて、亡くなってしまった命もあった。津波が来たら、逃げる。津波警報が解除されるまで戻らない、教訓としてこれが当たり前になって、失われる命が減っていくことが正しい風化だと思います。
被災地から距離が離れれば離れるほど防災への意識が低くなるように感じています。震災後5年ほど経った頃、より学びを深めようと思って防災士の資格を取りました。災害のメカニズムやいざという時の備えについても学べたのでとても良い機会になりました。
先日、トンガの海底火山が噴火した影響で日本にも津波警報が出たとき、岩手の方は徒歩で逃げていたのですが、他の地域の方は車で逃げて道路が渋滞しているのをニュースで見ました。実際にそこに津波が来ていたらと思うと、本当に怖いです。正しい避難の仕方を多くの方に伝えなくてはならないと強く感じています」
「復興のフェーズが変わっていく」高橋さんが考える被災地の復興
震災後半年から10年にわたって被災地の取材をしている高橋さんは、復興の形はだんだん変わっていくものだと話します。
「その年その年で復興のフェーズが変わっていくと思うんです。最初はもちろんマンパワーもお金も必要です。今、思う復興は、“人”なのかなと思います。ゼロになった場所に新しい町ができて、文化を継承していることもあれば新しい文化が入ってきたところもあって。
ここにもっと人が来てくれないと活気が生まれないと思うんです。人が訪れることでその場所が回って、人の心も復興していくのだと思います」
被災地の番組を担当しながら、ここ数年はどう人を呼び込んでいくかを常に意識しながら仕事をしているといいます。
「被災地の復興を学びましょうとか防災意識を高めるために来てくださいっていうことだけではないと思います。もちろん大切なことなのですが、私がこの仕事をしていなかったらきっとなかなか頭に入らないと思うので、実際に行ってみたら美味しいものがたくさんあって、見たい景色や会いたい人がいて、楽しい場所だということを知ってもらいたいですね。
その上で、実はこの地域にはこういうことがあったので、地震が起きて沿岸部にいたら逃げてくださいということも同時に伝えていく。東北の沿岸部は、町の中に慰霊の石碑があったり防災庁舎があったりしますので、肌で感じられる機会があると思います。
自分の地域に戻った時に防災への意識を少しでも高めてもらえたら、楽しみながらも自分の命を救うためにプラスになると思うんです。
去年、震災から10年という節目でここからきっと忘れられると被災地の方がおっしゃっていたのを聞いて、それならばここからが大事だと思い始めました。
東北にあるさまざまなポテンシャルをもっともっと出していけたらと思います。東北の人って控えめなんですね。そこがとてもいいところでもあるのですが、アピール下手なところは、私が少しでも伝える役目を担えたらいいなと思っています」
PROFILE 高橋万里恵さん
1983年生まれ、東京都出身。成蹊大学文学部卒。TOKYO FMの復興支援番組「Hand in Hand」や「いのちの森」に出演中。取材だけでなくプライベートでも東北や九州へ足を運び、被災地の住民からの信頼も厚い。
取材・文/内橋明日香 写真提供/東京エフエム系8局ネット「Hand in Hand」