「私たちより困っている人もたくさんいる。これ以上、誰かに助けを求めていいのだろうか」「食物アレルギーをわがままだと思われそうで、食べられないと言い出せなかった」── いわてアレルギーの会代表・山内美枝さんが避難所で見聞きしたのは、アレルギー患者にとって、“声を上げること”がいかにハードルが高いかということでした。
アレルギー疾患は、他人から見て症状がわからないことが多いため、周りの理解を得にくいという難しさがあります。我慢を重ねるうちに症状が悪化したり、心のバランスを崩す場合も…。
被災したアレルギー患者さんたちの切なる声やエピソード、そして山内さんが感じたことを伺いました。
妊娠中の女性が「子どもが食べないなら私も食べない」
── 約9か月間におよぶ支援活動のなかで、印象的に残っている出来事はありますか?
山内さん:
いろいろありますね。ダウン症の女の子と自閉症の男の子をもつママがいたのですが、自閉症の男の子には小麦と卵にアレルギーがありました。
被災するときに持ち出したわずかなアレルギー対応食品は底を尽き、車も津波で流されて買い出しもできない状態。自閉症で常に動き回るので、避難所に行くこともできず、神社に避難した後で夫の実家へたどり着いたそうです。
そこで私たちの活動を知り、ようやく支援物資を届けることができたのですが、心身ともに極限まで疲れ果てていらっしゃる姿を見て、とても心苦しかったです。
皆さんから寄せられたメールには、「1か月前にポスターで知ったが、連絡するのになかなか勇気が出なかった」「これ以上誰かに助けを求めていいのか、悩みました」「1人になるとふと涙が止まらなくなる」など、つらい心の内が綴られていました。災害時にアレルギー患者さんが声を上げることがいかに勇気がいるのか、思い知らされましたね。
──「配られた食事やボランティアの炊き出しを口にできず、みんなが食べているのを見ているのがつらかった」「せっかくの支援物資を食べることができず、肩身が狭い思いをした」などの声も聞きました。見た目で症状がわかりにくいだけに、理解されづらいのも難しい点ですね。
山内さん:
店が再開しても流通が回復せず、アレルギー対応食品はまったく入ってこなかったんです。避難所ではパンやカップラーメンが続く日もありました。
3歳の食物アレルギー児をもつママは、子どもに何も食べさせられない日もあったそう。かわいそうに、子どもが「どうして食べちゃダメなの…?」と涙を浮かべて聞いてくるのがとてもつらかったといいます。
その方は妊娠7か月だったのですが、「子どもが欲しがるから、私も食べることをやめました」とおっしゃっていて…衝撃を受けました。ほかにも「食べて死ぬか、食べずに死ぬかを考えた」という方もいて、皆さん本当に極限状態でした。
お風呂に入れず、保湿もできない、避難所の寝具でかゆみが出て、血が出るほど掻いてしまうというアトピーの人もいらっしゃいましたね。
「自分の身は自分で守るしかない」
── 行政に期待するのもなかなか難しそうです。どうすればよいのでしょうか?
山内さん:
令和3年3月には、岩手県の災害備蓄指針が改定され、副食についてもアレルギー対応食品の備蓄を進めることが明示されました。ただ、やはり一人ひとりアレルギーの状態が違うので、「自分の身は自分で守る」という意識をもって、できうる備えをしておくしかありません。
そして、アレルギーがあることを周囲に知らせておくことも大事です。例えば、避難所で「これ食べな〜」と親切心から子どもに食べ物をくれる方がいた場合、それが命取りになってしまうこともありますから。
私が代表を務める「いわてアレルギーの会」でも、食物アレルギーのサインプレートを作成し、講演会などで配布しています。情報をメモして首にかけておけば、いざというときに周囲の人に伝える手助けになりますし、声もあげやすくなりますから。
── 地元のネットワークに参加して、つながりをもっておくことも大事ですね。
山内さん:
震災時には「相談できる場所がない」という声が多数あがっていました。ひとりで抱え込んでしまうと孤立してしまいますから、つながりは持っておきましょう。自分が住む地域にどんな相談窓口があるかを調べてみたり、アレルギーをもつママたちのネットワークに参加してみるのもいいと思います。
PROFILE 山内美枝さん
岩手県盛岡市出身。いわてアレルギーの会代表。食物アレルギーに関する幅広い情報発信や啓もう活動などを通じ、自助・公助の大切さを伝えている。プライベートでは、21歳の長女を筆頭に、長男(中3)、次女(中1)、次男(小4)の4人の子どもをもつ39歳のワーキングマザー。
取材・文/西尾英子 画像提供/いわてアレルギーの会