子どもの頃に描いていた夢を実現できた方は、どのくらいいるのでしょうか。結婚、出産を経て専業主婦から一度は諦めた夢を叶えるべく再び動き出し、現在は役者として活躍する堀田ヤスヨさん。ドラマ「半沢直樹」や「奇跡体験!アンビリーバボー」の再現VTRなどにも登場する堀田さんは「主婦の私にはちょい役がピッタリ」と話します。ご自身のことを遅咲きだという堀田さんに、これまで歩んできた人生を伺います。
スターに憧れた子ども時代と初めてのオーディション
「当時大ブームだったピンク・レディーを見て、漠然と憧れたのが幼稚園のときでした。おばさんに連れられて別府のコンサートに行ったんです。でも私、恥ずかしがりやで人見知りだったので人には絶対に自分の夢を言えなかったんですけどね。
でも隠れてずっと踊っていました。親がいないときを見計らって、おじいちゃんが大事にお酒を飾っている棚のガラスに映る自分を見ながら。誰もが憧れるキラキラした人になりたいと子どもの頃から思っていました。
17歳のときに、時をかける少女などで有名な、大林宣彦監督のオーディションがあるのを雑誌で見たんです。映画の主役を決めるオーディションで、女優になれると書いてあって、ビビッと来たんです。漠然とスターに憧れていたのですが、これを見て『そうか、女優になるのいいね!』と思いました。
会場が広島で、私は大分に住んでいたので、これが人生初めてのひとり旅。それまで新幹線に乗ったこともなかったんです。ダメと言われるのが怖かったので、家族には前日に「広島なんだけど行っていい?」と聞きました。「いいけど行けるの?」と言われて、「行ける!」と自信満々に言って、ひとりでオーディションに行きました。
最終選考まで残り、キャラクター賞をいただきました。私が動くと審査員の方から笑われていたことを覚えています。映画デビューは叶いませんでしたが、これが夢への第一歩でした」
家出同然で地元・大分から東京へ
堀田さんはその後、進学と就職を経て、22歳で受けたオーディションがきっかけで東京に行くことになったそうです。
「女優の特待生のオーディションでした。家族からは『東京に行くな』って言われるんですけど、ほとんど家出状態で大分から出ました。青春の18きっぷで、大分から3日間かけて。友達の家に泊めてもらいながらオーディションを受けて、合格。演技の勉強を半年間、無償でさせてもらいました。
レッスンの先生が全て現役プロデューサーと演出家でした。『池中玄太80キロ』というドラマが子どものころに流行ったんですけど、その演出を担当されていた石橋冠さんという方も先生で、すごく私を褒めてくれたんです。『君は桃井かおりの匂いがする!』って。うれしくて舞い上がってしまいましたよ。
石橋さんから映画に出してあげると言われたので行ったら、エキストラでしたけどね。厳しい現実を目の当たりにして、自分でオーディションを受けてデビューするしかないと思いました」
「残金500円の日も」苦労した下積み時代
「お芝居の稽古をしているとバイトもあまり行けなくて、お金が入ってこなかったんです。ギリギリで生活していたのでバイト料の振込みまで待てなくて取りに行ったり、現金払いの日雇いの仕事に行ったりもしました。
電気が止まったこともあって、みじめでしたね。電気、ガス、水道の順に止まるんです。水が止まったら最後だから水道だけは!と思っていました。電気はろうそくをつけたらなんとかやっていけるので。好きなことをするというのは本当に大変でした」
その後、堀田さんはホリプロが主催する劇団のオーディションを受けて見事合格し、舞台などに立ちながら再現VTRなどに出演しました。所属がお笑いの部署だったこともあって、劇団でお笑いライブに出ることなどもあったそうですが、デビューには至らない日々を過ごしていたといいます。
「お笑いの所属でしたが、舞台に立てることは楽しかったです。ある日、いい勉強になるから、付き人をやらないかと言われました。現場の勉強になると思って喜んで引き受けて、東ちづるさんの担当をさせていただき、たくさんのことを学びました」
大手事務所にいても自分で頑張らなくては売れないと思い、みずから営業活動をしたこともあったといいます。デビューにまつわる話があっても、結局はガッカリすることが多かったそうです。
「業界で出会った人からスカウトとか、ハリウッドや映画デビューさせてあげると言われたこともあったんです。話を聞きに行くと、結局は愛人にならないかとか、家に来ないかという誘いで。
そういうことが、うやむやにあった時代だったと思うんです。今はそんな心配もなく、仕事があるのでいい時代だと思いますよ。田舎から出てきて、それだけはしたくないという信念があったのでことごとく断ってきたら、私の態度が気に食わないみたいで急に冷たくなって。一体何が正しいんだろう?と思いました」
南野陽子さんの仕事が転機に
「そこから小さい事務所に変えたんですが、やっぱり仕事はあまりなくて。そんなときにスタイリストにならないかと言われました。
高校が美術科の出身だったこともあって、センスもあるし、現場も知ってるし、あなたは役者でしょ?スタイリスト役として、明日行って来てよと。急きょ不在になったスタイリストの補充のために行くんですけど、いきなり行った現場で担当させてもらったのが南野陽子さんでした。
今までスタイリストさんがしていたことを見てはいたので、それと同じことをすればいいんだと思って洋服を借りに行きました。
そこから、あなたスタイリストでいけるわねと事務所から言われて。当時26歳で、お金を稼げていない自分が嫌だったのもあったので、スタイリストで稼いでいこうと思いました」
結婚後、祖父の死と流産を機に芸能界から手を引く
「担当するタレントさんや女優さんから控室で言われるんです。彼氏いるの?子どもは欲しいの?って。結婚ってなかなかできないから、できるならした方がいいよって。
当時、夫と付き合っていたんですけど、女優さんたちからそう言われると、私って才能ないんだなって思ってしまったんですよね。付き人もした、スタイリストもした、でも芸能界ではダメかもと思っていたときでした」
堀田さんは結婚を機に事務所を辞め、夫の転勤で東京から茨城に引っ越すことになります。その後は、仕事の際に東京に通う生活を送っていました。
「自分の夢が大きすぎちゃって。女優として売れたかったけど、ぜんぜん届かなかった。
業界の仕事はしているけど、ずるずるきてしまって。ちょっと負け犬っぽくて嫌でした。結婚をして事務所を辞めても、繋がりやご指名を頂いてスタイリストの仕事はたくさん来ました。タレントさんの写真集や、テレビの仕事などを担当していました」
その後、待望の我が子を授かるも、堀田さんに相次いで悲劇が訪れます。
「大分にいる祖父が亡くなった日に、流産してしまったんです。私のことを可愛がって育ててくれた祖父の死に目にも会えず、子どもも守ってあげられなかったと思って、自分を責めました。
考えてみれば、いちばんしたかった仕事ではないけれど、現場の勉強と思ってスタイリストをしていただけで演技はまったく出来ていなかった。現場にいれることが嬉しくて、これが私の夢の形かなとも思っていました。でも、2人の命が消えていくのを目の当たりにしたら、東京での仕事を一切辞めて一度全部リセットしようと思いました」
そこから半年ほどして子どもを授かり、長男を出産。2年後に次男を出産したあとは専業主婦となり、茨城で家事と子育てに励むことになったそうです。
「長男の幼稚園の役員決めで、ほかの方が上の子の小学校の役員で…と断っているのを見て謝恩会の役員を進んで買って出ました。結局役員長を務めました。
謝恩会では保護者で舞台をするんですが、台本を書いたら、なんでそんなにできるの?ってだんだん言われ始めるんです。ダンスの振り付けもしました。堀田さんって色々できるのねと言われましたが、私の過去の経歴は、ママさんたちは誰も知らないんですね。
調子に乗ってるよねっていう圧力を感じることもありました。でもそういうしがらみにも耐えて謝恩会は成功を収めるんです。その時に改めて、私こういう世界が好きなんだって思うんですね。次男のときにはもう、謝恩会のベテランで、帝王みたいになっていましたよ(笑)。今までで一番盛り上がった謝恩会になったと言われました。
PROFILE 堀田ヤスヨ
取材・文/内橋明日香 写真提供/堀田ヤスヨ