「“聞こえない世界” の未来を華やかにしたい。だって、聞こえない私たちが生きる世界にも、無数の可能性が広がっているから」
先天性の難聴を抱える牧野友香子(まきの・ゆかこ)さんが、大企業を辞め起業した「デフサポ」を通して、叶えたい未来とは── 。
「聞こえない世界」を生きること
「銀行のATMで、ときどき、キャッシュカードを取り忘れることがあります。きっと カードやお金を取り忘れたら警告音が鳴るんですよね?でも私にはそれが聞こえないから、よくカードを取り忘れちゃうんです」
屈託のない笑顔でそう話す牧野さんの言葉にハッとさせられた。「聞こえない世界」のことを、私たちはどこまで想像できているだろうか。
「一度、1週間ほど海外に行ったとき、家の水道を出しっぱなしにしていることに気づかず出発しちゃって。水道代の請求が何万円にもなってしまったこともあります…私がもともと忘れっぽいのもあるんですけどね」
牧野さんはスマホや財布など大事な物を落とすことも多いという。
「ユカコの歩いたあとには、いつもなにかが落ちてるって、友達によく言われます(笑)」
明るく話す牧野さんは「聞こえない世界」を生きている。落し物をしても音が聞こえない。2歳児健診のときに難聴が見つかり、2歳半から補聴器をつけている。
「難聴」とひとことで言ってもその程度は人それぞれ。彼女の場合は地下鉄のゴーっという音がかろうじて聞こえるほどの「重度の難聴」だ。
聞こえない人は手話を使うというイメージを持つ人も多いかもしれないが、牧野さんは手話を使わない。相手の口の動きや表情で話していることを理解し、自分の言葉は音として自分の口から発する。
そんな彼女は、コロナ禍でのマスク着用にも困ることがあるという。口の動きが見えないと、人が話している内容がわからないからだ。
※ 今回のインタビューは、マスクではなく透明のフェイスガードを着用し、感染予防に配慮して実施しました。
年間900人の赤ちゃんが聴覚に障害を持って生まれる
聴覚に障害を持つ子の親から相談を受けたり、また本人をサポートする事業を展開する「デフサポ」という会社を立ち上げ、運営している牧野さん。
デフサポでは、保護者や本人のカウンセリングの他に、大きくわけて3つのサポート事業を行なっている。
1つ目は、聴覚に障害を持つ子どもに対しての「ことばの教育」。2つ目は、本人が社会に出るときの就労サポート。そして3つ目は、聴覚障害についての情報発信だ。
「日本では、年間に約900人の赤ちゃんが聴覚に障害を持って生まれてきます。その割合は1000人に1人。
病室から連絡をくれる母親もいます。赤ちゃんの聴覚に障害があるとお医者さんに告げられて、スマホで検索して、私にたどり着くのでしょう。混乱して、号泣しながらビデオ通話をする方もいます。
みなさん医師からわが子の聴覚障害を突然告知され、ショックを受け混乱している状態。私はただオンライン通話やメールなどで相談にのったり、話を聞いたり することしかできなくて。ときどき、一緒に泣いてしまうこともあります」
離島や地方には、近くに相談できる施設や難聴児の療育を受けられる施設が少ないという問題もある。そのため、沖縄や各地にある離島などからオンラインで相談を受けることも多い。
「デフサポの事業は、私にしかできない仕事だという自負があります。だから、どんなにしんどくても『やめます』とは言えないし、言いたくない」
そう言いきる牧野さんは、当事者だからこそ見えてきた課題とその解決法を確信していた。
「あなたは選ばれた人だから」── この言葉が辛かった
牧野さんは幼少期「ことばの教室」に通って言葉や発音の訓練をした後、聾学校ではなく地元の公立小学校に通った。
「みんなと同じ学校に行きたくて。母も『聞こえる子とも関わっておいたほうがいい』という方針でした。私は友達にも恵まれていて、自然に受け入れてもらえました。
これは子どもの性格にもよりますけど、細かいことは気にしない性格なので、私には地元の学校が合っていたと思います」
“普通の” 中学・高校と進学し、大学を卒業して新卒でソニーに入社。持ち前の明るさと周囲のサポートに支えられ、難聴というハードルをひとつひとつ乗り越えて、順風満帆な人生を送っていたともいえるかもしれない。
そんな牧野さんに転機が訪れたのは、2014年、長女を出産するときのことだった。
「妊娠中、長女に、骨の難病が判明したんです。自分が聞こえなくてただでさえ大変なのに、それに加えて難病の子どもが生まれるなんて…。かなりショックを受けました」
そして、ある言葉が牧野さんの心を追い詰める。
「人から『あなたは選ばれた人だから。きっと乗り越えられるから、神様から(難病の子を持つ親として)選ばれたんだよ』と言われることが多かったのですが、実は当時、この言葉がすごく辛かったです」
もちろん悪気があって牧野さんにこの言葉をかけた人はいないだろう。でも、励ましや慰めの言葉はときに、当事者を傷つける。
「そのとき私が欲しかったのは、自分がなにをしたらいいのか、どういうことが必要なのかという “未来への見通しが立つ情報” でした。親として、自分になにができるかわからなくて不安でいっぱいで、未来に希望がないように感じていました」
行政サービスで保健師さんなどは親身になって心配はしてくれた。だが、当時、何をしたらいいのかという問いに対する明確な回答や欲する情報はなかった。
「子どもに障害があるという現実を受け入れることに、すごく時間がかかると感じました。不安しかないからなかなか向き合えないんです。
もし『こういうことをやればいいよ』という情報や言葉があって、親として子どものために自分ができることが見えたら、前向きにがんばれるのにと思いました」
難聴児とその保護者が、未来の見通しが立つ情報を発信したい
手探りで子どもの難病について調べ始め、友人知人にも情報を集めてもらいながら、牧野さんは、少しずつ子育てに前向きに向き合っていくことができたという。
そうして自身の子育てに奮闘しながら、たどり着いた答えが、難聴児とその親を支援したいという決意だった。
「私は、難病の子を育てる母親としては新米ママ。わからないことがたくさんある。でも、難聴のことはよくわかる。だって難聴者として30年間生きてきたから。
子どもの時にどんなことをしてほしかったか、どんな苦労をしたか、悩んでいる親御さんたちに伝えられることがたくさんあると思いました」
長女を出産したあとは手術などで忙しくしていたが、1年後に復職。やっぱりソニーでの仕事が好きだと感じた。
しかし2016年、次女の産休中の時間を利用して行った、難聴を持つ子の親へのカウンセリングを通して、改めてたくさんの課題を発見していく。
「40組ほどの親御さんのカウンセリングをして感じたのが、難聴を持つ子どもがどんな大人になるのか、親御さんたちがイメージできていないということ。
『ユカコさんみたいに聞こえなくても話せるようにするには、具体的にどうしたらいいのですか』と聞かれることもありました」
それはまさしく、牧野さんが長女の難病が判明した時に感じた「未来への見通しが立つ情報」が不足している状態だった。
聴覚障害に関する情報が少なく限られているため、ぼんやりとした不安がどんどん膨らんでいく。難病児を抱える親御さんたちの姿が、自分の姿に重なった。
「私は、聴覚に障害を持ちながら、聾学校ではなく地元の公立校に通って、“普通に”就職しています。そんな道があるということを知らない親御さんもたくさんいました。だからこそ、私が情報を発信しなければと思いました」
ソニーでの仕事を続けながら、副業で難聴児のサポート事業を両立させたいとも考えた。しかしあまりにも課題が多く、2人の娘を育てながらの兼業は難しいと感じ、ずいぶん悩んだことも。
それでも牧野さんは覚悟を決め、大好きだったソニーを退職。2018年4月、デフサポを本格的に始動させた。
「当時、私を頼ってくれている難聴児の親御さんたちがたくさんいて。今、その手を離したら、絶対、後悔すると感じました。
社名は、子どもの名前を考えるみたいにいくつか候補をあげて、デフサポという言葉に決めました。デフはDeaf(耳の聞こえない)という意味ですが、Defはスラング英語で「Definitive」(素敵、素晴らしい、カッコいい)という意味もあるんです」
難聴者が当たり前に活躍する「華やかな未来」の選択肢を
デフサポという社名はその意味も明確だ。しかし、デフサポのコンセプトである「難聴者の未来を華やかに」の「華やか」という言葉にはどのような意味が込められているのだろうか。
「よくある言葉は使いたくなかったんです。“豊かな人生を送ることができるように”とか“太陽のように明るく生きよう”とか、障害者ってそういう風に語られることが多いような気がします。
もちろん、これらはすてきな言葉ですけど、それよりも私は、その人らしく生きてもらいたいなって。障害を持つ人って、なんとなく派手にしたらいけないみたいな雰囲気があるじゃないですか。だからあえて“華やか”という言葉を選びました」
当事者である牧野さんは、障害を持つ人に対する画一的なイメージと、本来そこにあるはずのバリエーションの多様性の矛盾にずっとさらされていた。
華やかという言葉には、「こういう人はこう生きなければならない」という無言のプレッシャーからの解放が込められているのかもしれない。
世の多くの人が、心のどこかで「難聴者」をカテゴライズし、そのイメージを固定してしまっているのではないだろうか。
でも牧野さんは、勇気と決意を持ってそのイメージに向き合い、自分らしい生き方を選んでいる。
「デフサポでの活動を通して、聴覚に障害がある人たちが『できないことをできるようになる』のではなくて、その人自身の可能性をどんどん広げてほしい。たくさんの選択肢の中から生き方を選んでほしいです。
これから、聴覚に障害を持つ人の社会進出もどんどん進むと思います。私のまわりにも、聴覚に障害を持ちつつ社会で活躍している人がたくさんいます。
それが珍しいことではなく、当たり前だと思える社会になるように、これからも手助けができたらいいなと思います」