共働きでお互いを尊重し合って、協力して家庭を居心地いい場所にしていく。そんなふうに話し合って理想的な日々を過ごしていた夫婦がいます。ところが、思いがけないことが起こったとき、夫婦の危うさがわかったそうです。
家庭は夫婦平等。夫とは何でも話し合えていた…
30歳のときに2歳年上の彼と結婚したアヤカさん(42歳・仮名=以下同)。ふたりとも仕事を続けるためには、家事・育児を分担すると意見が一致して生活を始めました。32歳で長女、34歳で次女を産んでからも、「仕事も家庭も全力で」をモットーにしてきたといいます。
「夫がちゃんと対等な関係をわかってくれていたのが大きかった。彼とでなければ、こんなふうに家庭を築いてこられなかったと思います」
ただ、ふたりとも気になっていたのはお互いの親のことでした。夫のリョウタさんは三人きょうだいの末っ子なので、それほど心配はしていなかった様子。ただ、アヤカさんはひとりっ子。しかも母親との関係はよくありませんでした。
「夫は“アヤカはうちの親のことは気にしなくていいよ”と、最初から言ってくれていました。私も、母と私の関係に夫を巻き込みたくなかったので、『じゃあ、うちもうちで私が対応するから大丈夫』と言っていました」
目の敵にされていた実母に言いたかったこと
父はアヤカさんが結婚する前に病気で亡くなりました。そのときもアヤカさんは実家に戻るつもりはありませんでした。
「私は子どもの頃から、母に否定されながら育ちました。母は私が近所のおじさんに挨拶しただけで、『色目使って、嫌な子だね』と言うんです。小さいときはわけがわからなかった。勉強は好きだったけど、『勉強ができたって、女の子じゃどうしようもない』と言われたこともあります。なぜか私を“女”として目の敵にしていたんです」
“母とは離れたほうがいい”と中学生の頃から思っていたそうです。だから大学入学で、上京したときはホッとしたそう。それ以来、母とは深く話すこともありませんでした。ただ、“いつかは腹を割って話したい”、そう思っていました。
子どもを育てるようになり、アヤカさんは「こんなにかわいいのに、どうして母は私を邪険にしたんだろう」と思ったそうです。母親に孫の写真を送ることはためらわれました。母との間には、乗りこえられない壁ができていたのです。
「2年前、その母が急死したんです。スポーツジムでいきなり倒れて、私に連絡が来たときにはすでに心肺停止。2時間かけて駆けつけましたが、間に合いませんでした…」
母の死で崩れ始めた夫との信頼関係
ほとんど親戚づきあいもなかったため、彼女はそのまま実家に残って簡単な通夜と葬儀を執り行いました。夫とは連絡をとりましたが、かけつけることはなかったそうです。
「私は取り乱していて、当時の記憶が定かではないんですが、とにかく夫に冷たくされたと思いました。たしかに親との関係はそれぞれでと言って結婚しましたが、私が平常心でいられないときに夫が寄り添ってくれないことがショックで…」
ただ、夫に言わせると、子どもたちは祖母であるアヤカさんの母にほとんど会ったことがなく、連れていくのもためらわれたようです。
「ちょうどその頃、夫は仕事も非常に忙しかった。ただ、私は近所の人が数人来ただけで、お通夜の夜はずっとひとりぽっちで葬儀会場にいました。母に突然死なれて、どうしたらいいかもわからなくて。せめて夫には寄り添ってほしかった。子どもは夫の実家に預けることができたんですから」
四十九日がすんでからは実家の整理を始めましたが、心身ともにストレスがたまる作業でした。平日は仕事のため、休日を利用して少しずつ進めるしかありません。それについて夫に話しても、「手伝おうか?」のひと言もないそうです。
「1年経った頃、もうすべて嫌になってしまって…。夫に離婚を切り出したんです。夫はきょとんとしていました。それまでたまっていたことを全部吐き出したら、夫が『“手伝って”と、言ってくれればよかったのに…』と。私が我慢していたのがいけない、という言い方をされて、信頼していた夫との関係がガラガラ崩れていくのを感じました」
それでも子どもたちがまだ幼く、現実を考えて離婚は踏みとどまりました。ただ、アヤカさんの心に生じた「夫との壁」は厚くなっていきそうです。母親との壁に苦しんだからこそ、早く夫との壁を壊したい、でもどうしたら元に戻れるのかがわからない。アヤカさんは苦しそうにそう話しました。